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一二月二八日。 庭の周囲の高い垣根の向こうには、とても小さな家々のわらぶき屋根があって、もっとも貧しい階層の人たちが暮らしている。これらの小さな住まいの一つから、うなり声が絶えず発せられている――人が苦痛で発するときの深いうめき声である。私は、昼も夜も、もう一週間以上もそれを聞いている。しかし、音はあたかも断末魔のあえぎのように長くなり、また大きくなってきた。「誰かそこで重い病気なのでしょう」と、私の古い通訳者の万右衛門が、ひどく同情して言う。
音はしだいに耳障りで、神経に障るようになってきた。そのせいで、私はかなりぶっきらぼうに言った。「誰か死にかけているなら、いっそそうなった方がましだと思うがね」
万右衛門は、私の意地悪な言葉を払いのけるかのように、両手で突然、慌ただしく三度も身振りをした。このかわいそうな仏教徒は、ぶつぶつ唱え、とがめるような表情をして、立ちさった。そして、いささか良心が咎めたので、使いの者を遣り、病人に医者が必要か、また何か助けが要るか聞きにやらせた。戻った使いの者の話では、医者が病人を診ているし、他は格別必要ないということだった。
けれども、万右衛門の古くさい身振りにもかかわらず、その忍耐強い神経も、この音に煩わせられるようになってきた。彼は、これらの音から少しでも逃れたいとして、通りに近い、正面にある小さい部屋に移りたいと白状した。私も気になって書きものも、読書もできない。私の書斎は、一番奥にあり、病人があたかも同じ部屋にいるかのように、うめき声が間近に聞こえるのである。病気の程度が分かるような、一定の身の毛のよだつ音色を発している。私はつぎのように自問し続けている。私が苦しめられているこれらの音を立てている人間がこれから長く持ちこたえることがどうしてできるのだろうかと。
つぎの朝遅く、病人の部屋で小さな木魚を叩く音と何人かの声で「南無妙法蓮華経」と唱える声で、うめき声がかき消されていたのは救いというか、いくらかほっとした。
明らかにその家の中には僧侶や親せきの者たちが集まっている。万右衛門が「死にそうですね」と言う。そして、仏様に捧げる祈りの文句を繰り返した。
木魚の音や読経は数時間続いた。それらが終わったとき、うめき声がまた聞こえた。
一呼吸、一呼吸がうめき声だった! 夕方になると。それらはさらにひどくなった――身の毛のよだつほどである。そして、それが突然止んだ。死の沈黙が数秒続いた。そして、ウワーッと泣き出す声――それは女性の泣き声で――そして名を叫ぶ声が聞こえた。「あゝ、亡くなりましたね!」と万右衛門が言った。
私たちは相談した。万右衛門はこの家の者たちがとても貧しいことを知っていた。私は、良心が咎めたので、遺族にわずかな額だが、香典を出そうと言った。万右衛門は、私が全くの好意からそうしようとしているのだと思って、それがいいでしょうと答えた。私は使いの者に、悔やみの言葉と死んだ男のことが分かるなら聞いてくるようにと言った。そこには一種の悲劇があるのではないかと感じていたのだ。そして、日本人の悲劇は一般に興味深いものである。
一二月二九日。 予想したように、死んだ男の話はなかなか聴きでがあった。この家族は四人である――父と母は高齢で弱っているが、それに二人の息子がいる。死んだのは三四歳の長男で、七年も患っていた。歳下の方は人力車夫で、一人で一家の面倒を見ていた。彼は自分の人力車を持っていなかったので、一日五銭で借りていた。強健で足も速くなければ、稼ぐことはできなかっただろう。この頃は、競争相手がたくさんいるので、儲けを維持していくのは大変だ。それに両親と弱った兄を養うことは大きな重荷であった。不屈の自制心がなければ、それをやれなかったであろう。彼は決して一杯の酒すらも飲まなかったし、独身のままであった。彼は子として、とくに兄弟としての義務のためにだけに生きた。
つぎは兄の話である。兄は二〇歳の頃、魚の行商をしていたが、ある旅館の綺麗な女中を好きになった。娘も彼の愛情に答えた。二人はお互いに将来を誓い合った。しかし、結婚するにはいくつかの障害があった。この娘は綺麗だったので、世間的な慣習で、彼女の手助けを必要とする資産家の男の注目を惹いた。娘はこの男を好きではなかったが、男が出した条件は娘の両親にとっては魅力的であった。このため絶望した二人は情死をしようとした。どこか他のところで、夜に二人は落ち合い、酒で誓いを新たにして、この世への暇乞いをした。若い男が短刀の一突で恋人を殺し、すぐに同じ刀で自分の喉を切った。両人が息絶える前に、他の者が部屋の中へ入り込み、短刀を抜き去り、警察に通報し、駐屯兵から軍隊式の応急手術を受けた。自殺未遂の者は、病院に運ばれて手厚く看病されたが、回復後数ヶ月して、殺人罪で裁判にかけられた。
どんな刑が言い渡されたのか、詳細は知らない。当時日本の裁判官は、人情がらみの犯罪を裁く場合、かなりの個人的裁量を有していた。刑法典は西洋のをモデルに作られたものであったが、情状酌量の余地を制限していなかった。この事件の場合も、おそらく情死を遂げずに生存していたこと自体がすでに厳しい処罰を受けていると考えられたのだろう。だが、このような場合、世の意見は、一般に法律よりも手厳しく、慈悲深くはない。この哀れな男が刑期を終えて、帰宅を許されたものの、警察の絶え間ない監視の下に置かれた。周りの人たちは彼を避けた。彼は生き残って、生き恥をさらすという過ちを犯したのであった。両親と弟のみが彼の味方だった。まもなく彼は言いようのない身体の病気の犠牲になったが、なおも生に執着した。
喉の古傷は当時の状況の下ではうまく治療してあったが、ひどい痛みを引き起こし始めていた。表面上は治癒したように見えたものの、そこから緩やかにガンが進行しており、短刀が貫いた上下の息の道に広がっていた。外科医のメスや灸きゅうの灼熱しゃくねつの苦しみも最期を遅らせるだけに過ぎなかった。男はしだいに増してくる痛みに耐えながらも、七年を生き延びた。死者を裏切るような結果――つまり、冥土へともに旅するという互いの約束を破ったこと――について、まことしやかに信じられていることがある。殺された娘の手が傷口を広げている――言い換えると、外科医が昼間治療したものを夜になるとまた元に戻しているのだと、周りの人たちは噂した。というのも、夜になって、痛みは一層ひどくなり、心中が試みられたちょうどその時刻に最も激しい痛みとなったのである。
この間じゅう、家族は、傍目はためにもつらいほど質素倹約に勤め、薬代や看病、それに今まで自分たちですら食したことのない滋養ある食物を購うためにいろいろ工面した。彼らは、自分たちの恥辱や貧困さらに重荷であったはずの、当の生命をできる限りの手を尽くして長らえさせた。そして、今、死がこの重荷を取り除いたはずなのに、家族は嘆き悲しんでいる。
この事件から私たちみなはつぎのことが分かったのである。いかなる苦痛を引き起こすものであっても、人は耐えて自分を犠牲にしてまで、それを愛することがあるということである。ならば、次なる問いが問われよう。もっとも苦痛を引き起こすものを私たちは最も愛さざるか、と。