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石仏 4_小泉八云_日本名家名篇_日语阅读_日语学习网
日期:2024-10-24 10:29  点击:3336
 ここで一風変わった話を思い出した。
 庶民の人たちは、現在の不運は前世でなされた愚行の結果であるということや、現世での人生の過ちは、来世の生まれに影響するだろうということを、たいていは信じている。これらに共通する信念は、おそらくは仏教の出現よりも古くからある種々の迷信によって巧妙に強められている。しかし、それは行為の過ちなき法則と矛盾するものではない。これらのなかでも、とりわけ驚くべきものは、私たちが心の内で密かに悪事を思うことですら、他の人々の生命いのち に霊的な結果を及ぼすことがあるという信念である。
 私の知合いが現在住んでいる家に霊が取り憑ついていた。この家はとても明るくて、光に溢れているようであり、また比較的新しくもあるから、あなた方は、霊が取り憑くなんて想像できないかもしれない。その家には暗い隅や角など一切ない。それは、広くて明るい庭で囲まれている。――よくある九州の風景らしい庭であり、幽霊が潜むような大きな樹木もない。だが、霊が取り憑いており、しかも、いっぱいに明るい昼間である。
 最初に、東洋には二種の亡霊が存在していることを知っておいていただこう。――死霊と生き霊である。死霊は死者の霊に過ぎない。他の国々でもそうであるが、ここ日本でも、古来、たいていは夜に現われるのである。しかし、生き霊とは生者の霊であり、どんなときにも立ち現われる。それは人を殺す力を持っているから、生き霊の方がはるかに恐れられている。
 さて、私が話している家のは生き霊である。
 この家を建てた男は官吏で、裕福な資産家であった。男は隠居用にと考えていた。完成した後、綺麗な調度や物品を持ち込み、軒先には風鈴をつるした。熟練した画工たちが高価な木の板に桜や梅の花、また杉の木の頂に止まっている黄金色の目をした鷹の絵、そして、楓の木陰の下で餌を採っている小さな子鹿、雪中の鴨、飛んでいる青鷺、花開いた菖蒲、水中の月を掴もうとしている長腕の猿の絵を描いた。これらは、みな季節や幸運のシンボルである。
 持ち主は、金持ちだったけれど、残念なことに後継ぎがいなかった。このため、妻とも相談の上、また古い慣例しきたりに従って、家に見知らぬ女を迎え入れることにした。この若い女は田舎の出であるが、子を産んでくれれば相応のお礼をするという約束がなされていた。やがて男児を産むと女は里に帰された。生まれた男児のために乳母が雇われたので、男児は自分の本当の母親がいないことを悲しむことはなかった。これらはみな、はじめから納得づくのことだったし、これを正当化する古い言い慣わしもあった。ところが、女が里に帰されたときには、母親とのすべての約束はまだ果たされていなかった。
 ほどなくして裕福な男は病気になり、日増しに悪くなっていった。このため、周囲まわりの人たちは、この家に生き霊が憑いていると噂し合った。名だたる医師が何人も呼ばれては、できる限りの治療を施したが、その甲斐もなく男は次第に弱っていった。とうとう医師たちも、もう望みはないと言い、匙を投げかけた。男の女房は氏神様にお供そなえ物をしたり、八百万やおよろずの神々に祈ったりした。しかし、神様のお告げでは、「この男が約束を破った者から許しを得て、また、行いを悔い、過ちを改めなければ、死ぬことになるだろう。なぜというに、お前の家には生き霊が憑いているからだ。」という。
 それで病気の男はやっと思い出したが、良心が咎めたので、使いをやって、若い女を自分の家に呼び戻そうとした。しかし、女はどこかへ行ってしまっていなかった。――この国の四千万人の中で行方不明となっていた。男の病気は悪くなる一方だった。また女を四方八方探したものの、空むなしい結果に終わった。何週間か経った頃、ある農夫が門口に現われて、女の行方を知っているから旅費の面倒を見てくれるならば探しに行ってやろう、と言った。病の男はこれを聞いて声を振り絞って言った。「いいや!
あの女はもはや許すことができないから、私のことを心底からは赦さないだろう。遅すぎたのだ!」こう言うと、男は息絶えた。
 あとに遺された女房と縁者それに幼い男児は、この新しい家を捨てて出て行ったが、つぎには見知らぬ人が入った。
 不思議なことに、周りの世の中の人たちは、男児の母親について手厳しい――つまり、この女は生き霊が取り憑いたことについて責任があるというのである。
 私もはじめはこの点をとてもいぶかしく思っていた。それは、この事件の正邪について私が積極的に判断したからではなくて、この話の子細を知らなかったからである。にもかかわらず、人々が悪く言うのがとても奇妙だったのである。
 なぜか? 生き霊が憑くこと自体は、当人には何らの故意もないからである。それは魔女だからというのでは決してなくて、生き霊は、当人が知らずとも取り憑くものなのである。(「物」に憑くと考えられている魔術の一種も確かに存在するが――それは生き霊とは違う。)これで、読者のみなさんも、若い女を非難することを私がとても不思議に思った理由わけがお分かりになったろう。
 しかし、あなた方はこの問題の解決をどうやったらよいのか推測がつかないだろう。
それは、西洋にはほとんどといっていいくらい知られていない概念を含んだ、宗教上のものであるからである。生き霊を出現させた女は決して魔女としてみんなから批判されているのではない。まわりの人々は、女が意図したために生き霊が造られたものであるとは考えていない。彼らは、女が自分の処遇をただ不満に思っているに違いないと、自分たちが考えたものに同情しているに過ぎないのである。人々が彼女を批判しているのは、女がひどく怒りすぎたということだけである――つまり、女が自分の秘めた復讐心を十分に抑制していないという点である。なぜなら、怒りが秘かに恣ほ しいままになされれば、霊的なる結果を招くということを彼かの女は自覚すべきであったからである。
 頑かたくなともいえる強い心の働きがある場合以外にも、「生き霊」が存在する可能性があるなどと主張するつもりはない。しかし、かような信念は振る舞いにも影響を与えるものとしては確かに価値がある。その上、それは示唆的でもある。秘匿された邪よこしまな欲望や鬱積した復讐心それに仮面を被った憎悪が、これらを思いつき、そしてそれらを育はぐくんでいる当の本人の意思から離れて何らかの力を発揮しないとは、誰も保証できないだろう。ブッダのつぎの言葉には西洋の倫理よりももっと深遠な意味が込こめられているのではなかろうか――「いかなる時であれ、憎悪は憎悪によっては終わらない。憎悪は慈愛によってのみ止む。これが古くからの真理である。」ブッダの当時においても、この真理はすでに古いものであった。これに対して、私たちの西洋ではつぎのように言われている。「汝に悪が為なされるとき、それに復讐しないならば、この地上の多くの悪は死に絶えよう。」しかし、そうなのだろうか? 私たちは復讐しないことが十分であると確信しているか? 悪事の感覚によって心の中に解き放たれた動機となる意図は、悪をなされた側が何も行動しないことによって簡単に帳消しにされうるものだろうか? 力というものは消滅しうるものなのか? 私たちが知っている力とは変換されるのみである。ならば、私たちが知らない力についてもまた、多くのものが真実でありえるだろう。これらの力のうちに「生命」、「感覚」それに「意思」がある――これらがみな「私」という無限に神秘的なものを形成しているのである。
 

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