兵庫(ひようご) (兵庫県)
明治政府の外交戦略で、開港場が県名となった 大阪にほど近く、神戸などの大都市も抱える兵庫県は、北は日本海、南は瀬戸内海に面している。一九九五(平成七)年には、阪神?淡路大震災によって南部を中心に大きな被害を受けたが、その後は徐々に復興を遂げ、現在に至っている。
ところで、地名である「兵庫」とは、現在の神戸市兵庫区のあたりに、摂せつ津つ?播はり磨ま国境の須磨関を守る兵庫(武器庫)がつくられたことに由来するとされる。
その兵庫の地に明治政府が最初の行政機関である兵庫鎮台を置いたことから、地名がそのまま県名になったというわけだ。
だが、当時の兵庫は、姫路や明石に比べて規模が小さく、とても県の名前になるような場所とは思えなかった。それが県名になったのは、明治政府の外交戦略によるものだと考えられている。
一八五八(安政五)年の日米修好通商条約で、兵庫は函館、新潟、神奈川、長崎とともに開港場となった。同種の条約はそのほかの諸外国とも交わされ、江戸幕府からこの条約を引き継いだ明治政府は、これら五つの港の整備を最優先課題に据えた。そこで、「外国に開かれた土地」であることを強くアピールするために、条約上の開港場を県名にしたというのだ。
たとえば、当時の神奈川も小さな町だったが、そのまま県名となって神奈川県が誕生している。これもまた、明治政府の意図によって、県名に決まったと考えられている。