高知(こうち) (高知県高知市)
水害に悩まされ続けた人々の思いが込められた地名
土佐の「高知」の地名は、江戸時代に藩主を務めた山内家の二代目藩主、忠義の命名によると伝えられている。
現在の高知市は、土佐湾から切れ込むような入江の浦戸湾に立地している。そこに広がっている平野は、浦戸湾に注ぐ鏡川と江ノ口川が押し流してきた土砂が堆たい積せきしてできたものだ。
当時この地は、「河内」「河中」と書いて「こうち」と呼ばれていた。文字からもわかるように、かつては海底だった部分が陸地化していた土地だけに、地盤は軟弱だった。
山内家が土佐に転封されてくるまでそこの領主だった長ちよう宗そ我か部べ元もと親ちかも、この地に城を築こうとして断念したといわれている。
しかし、海と川で水運には便利、入り込んだ湾は防衛上も都合がいい。やはり築城には最適だと考え、初代の一豊が一六〇一(慶長六)年に居城を築いたのである。
しかし、それでも水害に悩まされつづけたため、二代目になって「こうち」と音は同じでも文字を変え、「高智城」としたという。
それが、いつの頃からか簡略化され、「高知城」になったのである。
土佐藩は、改名をよくしたようで、いまは鏡川となっている川も、最初は潮江川という名前だったらしい。それを五代目藩主・豊房が「影を映すこと鏡のごとし」という言葉にあやかって改名したものだという。