「昨夜、悪魔がやってきました」と、患者は医者にいった。「癌で死にかけているわたしに,地獄へ落ちてもいいのなら,もっと生き続けさせてやるという取引を申し出たのです。もちろん,わたしは喜んでこの①申し出たを受けましたよ。わたしはまだ生き続けなきゃならなんのです。仕事がありますのでね」そこは癌研究所の患者病棟の一室だった。
医者は,この患者の言葉に,あまり驚かなかった。死期の追った患者の妄想だろうと判断したのである。何しろこの患者は,ただ胃癌であるというだけではなくその癌が食道や肝臓へも移っていて,②死ぬのは時間の問題だと思われていたからである。
ところがそれから一ヶ月が経ち,二ヶ月経っても,患者は死ななかった。それどころではない。入院当初は半死半生だったこの患者はますます血色がよくなり,元気になってきたのだ。しかも癌はどんどん彼の全身に広がり,彼の内臓の器官すべてに移り,今や人間のからだの中に癌があるというよりは,癌が人間の形をしていると言った方が早いと言うような状態になった。医者は診断のしようがなく、これにはただ、あきれるばかりだった。
ついに癌が、患者の全身を占領した日,完全に元気を取り戻した患者は、医者に退院の許可を求めた。
「まあ,元気なんだから退院したっていいんですがね」③医者は首をひねりながら答えた。
「しかし不思議だなあ。あなたは本当ならもうとっくに④死んでなきゃ、いけないんですがねえ」
「わたしは、それほど不思議とはおもいませんね」患者は健康そうに朗らかな笑いを見せ、医者にいった。「ほら,昔バンパイヤ(吸血鬼)というのがいたでしょう。あの連中は,⑤血を吸い取られることによって永遠の生命を得たのです。わたしも、全身を癌に犯されたため、完全に癌と一体になり、もしかすると、これで永遠の生命を得たのかもしれないのです」
唖然としている医者にむかって、患者はさらにいった。
「ところで、ながい間病人用の食事だったもので,腹が猛烈に減っています。いかがでしょう。この病院の患者の体内から切除した肉腫を――詰まりその,癌を,少しゆずっていただけないでしょうか」
(注) 唖然としている: あきれているようす
問1①「申し出た」のは誰か。
1)患者 2)医者 3)悪魔 4)わたし
問2②「死ぬのは時間の問題」とはここではどのような意味か。
1)何時死ぬかわからない 2)もうすぐ死ぬ
3)死ぬ時間が問題である 4)死ぬまで時間がかかる
問3③「医者は首をひねりながら答えた」とあるが,医者の気持ちは次のどれか。
1)まだ退院するには早すぎる。
2)退院できるぐらい元気なのが不思議である。
3)本当は元気ではないので心配である。
4)医者のいうことを聞かないので腹立たしい。
問4④「死んでなきゃ,いけない」とはここではどういう意味か。
1)死んではいけない 2)死ぬべきである。
3)死ぬわけにはいかない 4)死んでいるはずである
問5⑤「血を吸い取れること」とあるが,この患者にとって,それは何にあたるか。
1)バンパイヤになること 2)肉腫である癌に犯されること
3)癌患者の生命をうること 4)病人用の食事を食べること