第12課 日清?日露戦争と日本帝国主義
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1894年、朝鮮での甲午農民戦争と呼ばれる大規模な反乱が発生したのを契機にして、日清両国が朝鮮に出兵し、日清戦争が起こった。次ぎに義和団の乱が起こると、日本を主力とする8カ国連合軍は、1900年、北京に進駐した。続いて、満州を占領していたロシアが韓国に勢力を伸ばすや否や、日本は日英同盟を結んでロシアに対抗し、 1904年にはついに日露戦争が勃発した。明治末期には日清?日露という大きな戦争が起こったが、その勝利を通じて日本は歴史上初めての海外植民地を手に入れ、帝国主義国に転化していったと言える。
みなさんは、福沢諭吉という人を知っているだろうか。現在の慶応大学の創立者なのだが、一万円札に載っている人物と言った方がわかるかも知れない。この諭吉は「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という有名な人間平等宣言を記すとともに、西洋文明を学ぶことによって「一身独立、一国独立」すべきだと説いた学者で、明治を代表する思想的指導者であり、近代教育の祖とも言われる人物である。その諭吉でさえ、1985年には「脱亜論」を展開し、アジアを蔑視し、「朝鮮?中国と接する時は、ヨーロッパの国々が接するのと同じやり方で接すればいいのである。」と侵略を肯定するようになった。そして日清戦争に当たっては、「これは文明と野蛮の戦争であり、文明国日本にとって、清との戦いは正義の戦いである」と新聞に書くに至ったのである。日清戦争に対する日本国内の反応は「好戦気分」の洪水であった。
日露戦争は薄氷の勝利であったとはいえ、アジアの小国日本が世界の大国ロシアを破ったというニュースは、日本人は言うまでもなく、19世紀以来、ヨーロッパの列強の侵略に悩まされてきたアジア諸国の人々を驚喜させた。独立後最初のインド大統領となったネルーも「日露戦争での日本の勝利は、アジアの民肖嗣褡宥懒ⅳ丐未螭氏M蛴毪à俊工葧い皮い搿¥趣长恧⑷枕n併合など、日本がその後にとった行動は、ことごとくアジア民肖蜗M蜓Y切るものだった。日本はヨーロッパ列強諸国と手を結び、アジア支配に加わったのである。まさに「脱亜入欧」である。これを知ったネルーは、「しかし、気がつくと、それは希望を与えたのではなく、飢えた狼をもう一匹増やしただけであった。」と書き添えている。
日本政府は日清戦争で得た賠償金をもとに金本位制を確立し、1901年に鉄鋼生産のために官営の八幡製鉄所が操業を開始し、兵器、造船など諸産業発展の基礎を作り上げた。こうした産業革命の展開の中で、三井家、岩崎家(三菱)などの政商が巨大な産業資本家となり、二つの戦争を通して財閥を形成するようになった。
1912年明治天皇が没し、大正の世となった。1914年に第1次世界大戦が始まると、日本は日英同盟を口実にして参戦し、翌年には中華民国の袁世凱政権に中国の主権を侵す「二十一カ条要求」をつきつけ、その大部分を強引に認めさせた。この第1次世界大戦はかつてない好景気を日本にもたらし、戦争成金が続出した。日本の輸出は1914年から1919年までの5年間で4倍以上に増加したばかりか、債務国から債権国へ転じ、工業生産額は農業生産額を上回り、工業国の仲間入りを果たしたのである。
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新しい文型
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~を契機に(して)
~や否や
~さえ:
~に当たって
~とはいえ
~ばかりか