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第十三章:歴史~千古のなぞ 秦の始皇帝陵の謎
日期:2015-01-07 13:44  点击:429
 秦の始皇帝の陵墓は陝西省西安の郊外にある。驪山の北、渭水の南にある始皇帝陵を空から見ると、まるでエジプトのピラミッドのようなスケールである。 
 
 始皇帝陵内部の区画と構造は秦の都・咸陽とそっくりで、地下宮殿や、内外の城壁も全て咸陽を真似て建造されたものである。始皇帝陵の本体と周辺の副葬地区は66.25平方キロに及び、現在の西安の市街地面積の2倍に当たる。 
 
 始皇帝は13歳で即位してから驪山に自分の墓を修築し始め、中国を統一した後にさらに各地から10万人以上を徴用して墓を築いた。それは、彼が50歳で死去するまで37年間続いた。史料によると、始皇帝陵には珍しい宝物が沢山安置されており、盗掘を防止するために矢を自動発射する弓の仕掛けもあった。墓室の天井には星辰を表わす宝石と真珠が飾られ、床には中国の五大山などの模型が置かれ、その間を河と海を象徴する水銀が流れ、黄金で作った雉が浮かんでいた。墓室には鯨の油を燃料とする「長明灯」が燃え続け、墓室の周りは大規模な兵馬俑の軍隊に囲まれていた。 
 
 紀元前210年、始皇帝が今の河北省平郷で急死し、遺体は咸陽に運ばれた。2カ月後に葬儀が行われたが、始皇帝の女官と墓を建造した職人も共に埋められた。 
 
 『漢書』と『水経注』には、始皇帝陵は紀元前206年に項羽によって破壊されたという記録がある。北魏の『水経注』によると、項羽は咸陽に突入した後、30万人を動員して始皇帝陵内の宝物を運び出したが、30日かかっても終わらなかったという。その後、羊飼いが行方不明になった羊を探してたいまつを持って墓に入り、誤って墓が燃えてしまった。 
 
 しかし、始皇帝が死んで100年ほど後に完成した司馬遷の「史記」には、始皇帝陵の火災に関する記録は何もないため、そのさらに500年後に完成した『水経注』の記録は疑いがあるという声も聞かれた。 
 
 1949年、新中国の誕生後、中国の考古学研究者は始皇帝陵の探査を続けてきた。1974年に兵馬俑が発見された後、始皇帝陵本体の周囲に200基以上の探査ホールを掘ると、盗掘の跡が2カ所見つかった。それぞれ陵墓の東北と西にあり、直径約90センチ、長さ9メートルに達していたが、墓の中心にはまだ250メートル以上離れていた。 
 
 さらに、地下宮殿の城壁が破壊されていないことや水銀の流れが崩れていないことなどから、始皇帝陵本体は盗掘されておらず、ほぼ完全に保存されいるという結論が出された。

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