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黒田如水と博多商人
日期:2015-10-24 14:01  点击:422
 黒田官兵衛こと黒田如水の息子・黒田長政は、関ヶ原の合戦で徳川家康のために大活躍しました。その功が認められ、戦後家康から、筑前(福岡県)一国をあたえられました。石高は52万石となり、黒田一家は行き意気揚々と博多湾に面した福崎城に入城しました。
 
 如水はすでに隠居していましたが、その後も息子の長政にあれこれとアドバイスを加えていました。このときも、長政にこう言いました。
 
「長政よ、この土地の名前を変えろ」
 
「地名を? 何とお変えになりますか?」
 
「福岡だ」
 
 福岡というのは、かつて黒田家が住んでいた土地の名前で、備前国(岡山県)にありました。吉井川河口の港町でしたが、如水はその後、姫路(兵庫県)に移り住み、福岡は寂れてしまいました。如水は福岡にいた時代が忘れられず、いつか永住の地に移り住んだら、その地名を復活させようと考えていたようです。
 
 さて、このお触れが領国に出されると、たちまち領民から大反対の声があがりました。とくに博多商人たちの反対が強く、彼らの代表が福崎城に抗議にやってきました。その理由は、博多の地名は上代から国際港として有名であること、福岡の地名は黒田家に縁があるのみで、九州やこの地域には何の関係もないこと、個人的な事情で地名を変えてもらっては困る、というものでした。
 
 この抵抗は如水たちには意外でした。博多商人の気概は知っていましたが、これほどとは思ってもいませんでした。しかし、一度掲げたものを引っ込めては武士の名折れです。それに、福岡の地名復活は宿願でした。彼は妥協策を考えました。そして、
 
「福崎地域は福岡に改める。ただし、博多の地名はそのまま存続させる」
 
としたのです。現在、福岡市はあっても博多市はありません。福岡市博多区となっています。それなのに、山陽新幹線の終着駅は博多駅です。これは、このときの事情で、この地域に2つの地名を共存させたからです。

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