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猫を抱いて長電話50
日期:2020-08-11 10:41  点击:289
 都市は病んでいる
 
 今、都市は病んでいる。
 先日、郵便局に行った時のこと。いつ行っても混雑している局で、その日も相変わらず、窓口には、列が出来ていた。通路に設けられている椅子はひとつだけ。そこには七十五、六とおぼしき腰の曲がった老婆と、赤ん坊を抱いた若い女性、それに学生ふうの若い男が座っていた。
 列の最後尾について、ぼんやり立っていた私は、老婆がしきりともじもじし始めたことに気づいた。手にした巾着型の袋を開けたり閉めたりし、周囲をきょろきょろ見回している。今にも独言を言い出しそうに口をすぼめて、唇を動かしていたが、やがてその視線が隣の赤ん坊に向けられ、ひたと止まった。
「可愛いわねえ、赤ちゃん。おお、可愛いこと。何か月になったの?」老婆は何度も練習したかのように、ぎこちない口調でそう言った。赤ん坊を抱いていた若い女性が、「三か月です」と小声で答えた。ちょっと迷惑そうな言い方だった。彼女は目をそらし、老婆と逆のほうを向いた。それ以上、話しかけないでください、というサインのようだった。
 にも拘らず老婆は膝を乗り出し、皺《しわ》くちゃの指で赤ん坊の小さな手をさすった。
「そうなの。三か月なの。元気そうでいいねえ。ほんとに可愛いねえ」
 若い母親は顔をそむけたまま、黙っていた。老婆は「可愛いねえ」「三か月なの」「元気そうでいいねえ」……の三種類の言葉を繰り返し繰り返し語りかけ、ちらりと母親のほうを窺《うかが》った。そして母親に向かって笑顔を作ってみせた。とっておきの笑顔のようだった。
「夜泣きはしますか?」老婆は聞いた。
 母親は迷惑そうに顔を歪め、「時々」と答えた。老婆は「そうなの。時々泣くの」と楽しそうに言った。「赤ちゃんは泣くのが商売だからねえ。そうよねえ。泣くのが商売だものねえ」
 だが母親は黙ったきり、何も言わない。赤ん坊がむずかり出した。母親は子供をあやすふりをして、つと立ち上がり、老婆から離れてしまった。残された老婆は笑顔をひきつらせたまま、所在なげに背中を丸めた。
 やがて順番が来て、椅子に座っていた学生ふうの男が窓口に立った。彼はおずおずと封書を差し出し、「あのう」とかすれた声で言った。「これ、速達で出したいんですが……僕、切手は持ってるんですが……あのう……いくら貼《は》ればいいでしょうか」
 彼が差し出した封書は、定形のもので、薄っぺらく、間違いなくふつうの速達料金で届くものに見えた。応対に出た中年の男性職員が、形式的に封書を受け取り、秤《はかり》にかけた。「二百七十二円です」
 学生ふうの男は持っていた切手を眺め、「二百七十二円を貼れば速達になるんですか」と聞いた。そうです、と職員はうんざりしたように答える。なんでこんな初歩的な質問に答えねばならないのか、と苛々《いらいら》している様子だった。男はそれでも、まだ窓口で困ったような顔をして立っていた。
「あのう……速達だったら、�速達�と書かねばならないんですよね」
「そうですよ」
「赤い文字で……ですよね?」
「スタンプがそこにありますから。それを押せばいいんですよ」声に刺《とげ》がある。
「あのう……どこに押せばいいんですか。ここですか」
「そう」
「一か所だけでいいんですか?」
 男は封筒の上のほうを指さした。職員は呆れ果てたようにうなずき、声を張り上げた。
「次の方、どうぞ」
 男は顔を真っ赤にして、その場を去った。台の上の速達スタンプを押している彼の手元に、定期入れに入れられた学生証が見えた。彼は某有名大学の学生だった。
 こうした光景は何も珍しいものではない。都会のあちこちで起こっている些細《ささい》な、誰にも気づかれずに忘れてしまえる一瞬の出来事でしかない。
 だが、私はこうした光景に出くわすたびに、「都会の孤独」だの「今どきの若者は……」式の手垢《てあか》のついた言葉を超えた、何かうそ寒い、都市の慢性化した病を思い浮かべてしまうのである。
 老婆は、誰かと話がしたかったのだろう。寂しさを訴え、世間話の中で慰められたいと思ったのだろう。その欲望を無視されたものだから、深い悲しみの中で殻を閉ざす形になった。みんな冷たいんだ、と老婆は不特定多数の�みんな�を恨んだかもしれない。
 ところが若い母親にはもともと社交の才能がなかった。彼女が冷たい女、老人を無視する女だったとは思えない。彼女はただ、見知らぬ他人と世間話をするのが苦手だったのだ。だから突然、老婆に話しかけられて困惑した。鬱陶《うつとう》しいと思った。おそらくその一瞬、老婆を憎んだかもしれない。
 また速達の出し方もわからなかった学生は、自分の無知がどれだけ他人に迷惑を及ぼすか、考えたこともなかった。無知な人間を見捨てないのが社会であると思いこんでいた。だから何故、自分が邪険にされたのかわからない。だから彼は赤面しながらも、やっぱり無知のままでいる。彼は誰をも恨まない。その代わり、相変わらず社会と自分との距離がとれずにうろたえ続けていくのだろう。
 これらは都市が生んだ病に他ならない。みんな心を閉ざし、自分だけの思いこみの中で生きている。その思いこみが通用しないと、人を恨んだり絶望したり、あるいはまたひどくうろたえたりする。いわゆる異常犯罪もこの延長線上に生じる。病巣は深いのだ。
 こうした都市型の病があればこそ、ミステリ小説に描く題材にはこと欠かないでいられる。でも、ふと怖くなることもある。事実は小説より奇なり……ではなく、もしかすると小説が事実に先行してしまうこともあるのではないか……と。こんなふうに怖がりながら尚、いそいそと都市型病を好んで書き続ける私もまた、病んでいるのかもしれないけれど。

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