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ぐうたら愛情学122
日期:2020-10-10 10:36  点击:286
三月……日
 
 私は仕事に疲れて散歩にでたとき、しばしば、よその家の前でたちどまることがある。私はその家の表札に眼をやる。内藤茂夫だとか梅田一郎だとか、なんの変てつもない名前を暗記してから、垣根ごしにチラッと、その家のよごれた玄関、くたびれた下着の干してある庭、子供の三輪車がこわれたまま投げだされている勝手口をのぞく。硝子窓はしまっている。家の中からは物音ひとつしない。
 すると、私にはなぜか、その家のなかでジッと向きあっている一組の夫婦の影像がうかび上ってくるのだ。彼らは互いに黙っている。時々、妻が話しかけるとき、夫のほうは疲れた気のない返事をするだけだ。彼らは結婚して何年たっているだろう。二年か。三年か……。そういうことはどうでもよい。確かなことは、私の想像するこの家の夫婦がその隣家の夫婦とまったくおなじように、自分たちの生活にも愛情にも重くるしい不満を感じ、ときには相手を憎みながら生きているということである。
 彼らが別れることはおそらく、あるまい。世間ていや子供にたいするきずな、あるいは別れるということのめんどうさや、新しい相手と結婚生活を繰りかえすことの煩雑さから、この夫婦はこれからも今までの生活を続けていくだろう。やがてふたりが老年になり、もはやそうした不満にも憎しみにも無感覚になる日をひそかに期待しているのかもしれぬ。
 こうした影像は散歩の途中、どの家を見ても私にはうかび上がってくる。もちろん、それらの家々のなかには私の想像など受けつけぬような調和したしあわせな家庭もあるだろう。けれどもその他の大部分の家は多かれ少なかれ、このような状態で毎日を送っているはずである。あるいはそうした状態や不満をさまざまな手段や方法でなだめたり、ごまかしながら生活しているはずだ(たとえば「恐妻」という言葉がある。ああした言葉の背後には一種、作為的なユーモアでどうにもならぬ自分の結婚生活の不満をなだめようとする夫たちの気持がかくされているのである)。
 彼らの家に風波がないということはこの場合、問題にはならぬ。風波がない夫婦は必ずしも幸福な夫婦とはかぎらない。おおむねの場合、惰性と無気力とが夫たちに家庭内に事件を起こさせぬ場合が多い。妻を愛するために裏切らぬのではなく、裏切りによって起こるさまざまの煩わしさから姦通を犯さない夫たちを私は多く知っている。私が散歩の途中見るこれらの家々の夫婦たちは、多かれ少なかれ、このようなものなのに……。

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