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大団円 一(1)
日期:2023-12-29 16:29  点击:269

大団円

    一

 故尾形静馬氏の新しい墓ができたにつき、来たる十一月二十八日、その除幕式を挙行す

るから、ぜひ御列席下さるようにという意味の手紙を、金田一耕助が受け取ったのは、事

件がすっかり解決してから、四週間ほどのちのことである。

 差し出し人はいうまでもなく篠崎慎吾、慎吾の住所は名琅荘になっていた。

 さすが剛腹をもってなる慎吾もあの事件のあと、名琅荘に閉じこもったきり動かなかっ

た。金田一耕助や土地の警察の尽力で、事件の真相は解明され、慎吾はあらゆる疑惑から

解放されたが、かれの失墜した名誉や面目は大きかった。

 昭和二十四年の醜聞が大きければ大きかっただけに、かれの器量のさげかたは深刻で、

なんの面目あって中央の業界へあいまみえんやというわけらしい。かててくわえてかれの

負傷もそうとう重かった。弾丸はぶじに摘出されたものの、当分過激な活動はさけたがよ

かろうという森本医師の忠告もあり、かたがたかれは名琅荘で静養をつづけているのであ

る。

 どうせこの男のことだから、このまま逼ひつ塞そくしてしまうわけではなかろう。いず

れは捲けん土ど重来を期しているのであろうが、いまはそれにそなえての雌伏期間であろ

う。活動家の慎吾にとってそれはたえがたい無ぶ聊りようの期間だったにちがいないが、

かれはこの無聊の期間を利用して、尾形静馬の墓づくりに熱中した。

 鬼の洞窟の奥ふかく、お糸さんの手によってひとしれず、葬られていた尾形静馬の墓は

二十年ぶりに発掘された。塚の底から出てきたのは、左腕を失った以外は五体そろった人

間の骨格だった。むろん長の歳月、土中に埋もれていたその骨格は、バラバラにはなって

いたけれど、左腕以外完全にそろっているのが、発掘者たちの涙をさそった。

 思えば尾形静馬ほど薄幸のひとがまたとあろうか。佞奸邪知の古館辰人におとしいれら

れ、あらぬ濡ぬれ衣ぎぬをきせられたうえ、嫉妬に眼のくらんだ一人伯に、一刀のもとに

片腕を斬り落とされたばかりか、主殺しの汚名のもとにあの洞窟の奥ふかく、無念の涙を

のみながら蛆うじ虫むしのように死んでいったのである。

 こんどの事件もすべて尾形静馬の怨おん念ねんのなすわざだろうと、当時世間に喧けん

伝でんされたが、これはいささか牽けん強きよう付ふ会かいに過ぎるようだ。

 慎吾は鬼の岩屋の崖のうえを伐きりひらいて、そこに三百坪ほどの平地を造成し、その

中央に黒御影の墓を建こん立りゆうした。墓の高さは一丈にあまり、表面には、

「尾形静馬殉難碑」

 裏面には慎吾自身の撰文による碑のゆらいが、こまごまと彫り込んであり、碑の左右に

は古雅な石いし灯どう籠ろうが二基立っているが、商売に抜け目のない慎吾のことだか

ら、将来これを名琅荘名物のひとつにするつもりかもしれぬ。

 除幕式の執り行われた十一月二十八日は絶好の秋あき日び和よりであった。いや、海抜

のそうとうたかいこの高原では、晩秋というよりはもう初冬というべきかもしれない。明

け方は霜と氷がきびしかったが、除幕式の執り行われた午後一時ごろはうららかに晴れわ

たって、風はいささか冷たかったが、陽ひは暖かく、東方の空にそびえる富士の高たか嶺

ねは冬化粧がうつくしかった。

 この除幕式に出席したのは施主の篠崎慎吾にお糸さん、陽子に秘書の奥村弘。陽子は強

打されたのが後頭部だから、後遺症が懸け念ねんされたが、さいわいその心配もなく、そ

の後東京の本宅へかえって元気に学校へ通っている。

 意識を回復してまもなく、彼女が告白したところによるとこうである。

 陽子はあの抜け穴から日本座敷へ通ずる間道をしっていたのだ。いや、はっきりしって

いたわけではないが、あそこがそうではないかという心当たりがあったのだ。そこは鼠の

陥穽とダリヤの間の中間より、やや鼠の陥穽にちかい地点に当たっていた。

 日曜日の午後奥村弘とあの地下道を抜けたとき、途中で彼女はものにつまずき、よろめ

いて、おもわず壁に手をついたのである。壁がぐらっと揺れたような気がしたが、とたん

に地下道の天井から、煉瓦が四、五枚落ちてきたので、彼女は悲鳴をあげてとびのいた。

奥村にたしなめられ、彼女は笑いさんざめきながらそこを通りすぎ、間もなく鼠の陥穽に

いきついたのである。


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05/19 03:31