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【大内義隆】
日期:2017-10-24 11:05  点击:514
【大内義隆】
(おおうちよしたか)
 
(1507―51)戦国末期、山口を本拠とした大内氏嫡統の最後の大名。義興{よしおき}の子。幼名は父と同じく亀童{きどう}丸。父の死で家を継ぎ、周防{すおう}、長門{ながと}、豊前{ぶぜん}、筑前{ちくぜん}、石見{いわみ}、安芸{あき}の守護となる。有職故実{ゆうそくこじつ}を尊重、京都から官務家{かんむけ}小槻伊治{おつきのこれはる}を招いて文書のことにあたらせた。後奈良{ごなら}天皇即位の儀式の資を献上して大宰大弐{だざいのだいに}に任ぜられると、少弐{しように}氏を滅ぼして肥前{ひぜん}国を収め、北九州と制海権を掌中にし、東は安芸の武田氏を滅ぼし、備後{びんご}の諸将も従属させた。1542年(天文11)尼子{あまご}氏討伐に山陰へ遠征、翌年大敗してより武事を忘れ文事にふけった。位は従{じゅ}二位に上り、公家{くげ}たちを山口に迎えて厚遇し、京都の学問芸能を移植、朝鮮と明{みん}の高級文物を輸入し、ザビエルの一行に宣教の自由を与え、山口は文化都市として栄えた。その文事と奢侈{しやし}は陶晴賢{すえはるかた}ら武断派家臣団と領民一般の反感を買い、51年謀反にあい、長門大寧寺で切腹して果てた。

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