【黒田清隆】
(くろだきよたか)
(1840―1900)明治時代の政治家。天保{てんぽう}11年10月16日、薩摩{さつま}藩藩士清行の長男に生まれる。1863年(文久3)薩英戦争に参加。同年藩命により江戸の江川塾に入り砲術を学ぶ。66年薩長連合の成立に尽力し、戊辰{ぼしん}戦争には参謀として従軍。箱館五稜郭{はこだてごりょうかく}の攻撃を指揮した。69年(明治2)外務権大丞{ごんのだいじょう}、ついで兵部{ひょうぶ}大丞となり、翌年樺太{からふと}(サハリン)専任の開拓次官に就任。樺太を放棄して北海道開拓に専念すべきを建議し、これは75年樺太・千島交換条約として実現した。71年開拓長官欠員につき長官代理となり、74年陸軍中将兼参議、開拓長官に就任、アメリカ人ケプロンらを招いて、洋式農法の導入、官営工場の設置、炭鉱の開発、鉄道・道路の建設などを進めた。74年には屯田兵{とんでんへい}を創設。75年特命全権弁理大臣として江華島{こうかとう}事件の処理にあたり、翌年日朝修好条規を締結。77年西南戦争の際には征討参軍として、西郷隆盛{たかもり}軍と戦った。開拓使10年計画の満了を翌年に控えた81年7月、その官有物を極端に有利な条件で同郷の五代友厚{ごだいともあつ}らに払い下げようとして激しい世論の批判を受け(開拓使官有物払下げ事件)、10月の「明治十四年の政変」によって払下げは中止、翌年開拓使は廃止されて、内閣顧問の閑職にかわった。84年伯爵。85年右大臣に登用の動きがおこったが、酒癖の悪さを問題とする天皇らの反対により実現しなかった。87年第一次伊藤博文{ひろぶみ}内閣の農商務大臣に就任、ついで88年内閣を組織した。同内閣のもとで大日本帝国憲法発布の式典を遂行。政党の動きに制約されず政策を推し進めるとの超然主義の立場を表明した。しかし、89年条約改正交渉への反対運動が高まり、大隈重信{おおくましげのぶ}外相が襲撃されるに及んで辞職し、枢密顧問官となった。元老待遇を受け、92年第二次伊藤内閣の逓信{ていしん}大臣、95年枢密院議長に就任。明治33年8月23日脳出血のため死去した。大久保利通{としみち}没後の薩摩閥の中心人物であったが、長州閥に対しつねに劣勢であった。78年には酒乱のため病妻を殺害したとの風評がたった。