もののいえないもの
小川未明
敏ちゃんは、なんだかしんぱいそうな顔つきをして、だまっています。
「どうしたの?」と、姉さんがきいてもだまっています。
「おかしいわ。いつも元気なのに、けんかをしてきたんでしょう。」
「ばか。だれがけんかなんかするものか。」
「じゃ、どうしたの?」
「なんでもないのだよ。」
敏ちゃんは、あちらへいってしまいました。そしてまた、考えていたのです。それには原因があったのです。わけといって、ただお友だちの徳ちゃんが、今日川へ釣りにいって見てきたことを話しただけですが。
「今日、僕、釣りにいったら、一匹の大きなへびがいなごをのんでいるのを見たんだよ。へびって、にくらしいやつだね。だから、石をなげてやった。」
「そうしたら、どうしたい?」
「どこかへはいって、見えなくなってしまったよ。」
話というのは、ただこれだけです。けれど、敏ちゃんにはその話がなんでもなくなかったのは、つい二日まえのことでした。長いあいだかわいがっていたきりぎりすを、その田んぼの方へ逃がしてやったからです。なぜ、そんなにかわいがっていたきりぎりすを逃がしたかというのに。
ちょうど兄の太郎さんが、お庭で草をとっていましたが、家へあがってくると、
「くもという虫は、りこうなものですね。平生は、おくびょうですぐ逃げるくせに、子供を持っているとなかなか逃げないで巣の中にじっとして、子供をまもっていますよ。かわいそうだから、その草をぬかずにおきました。」と、話しました。
「きっと、くものお母さんでしょう。くもにも母性愛というものがあるのでしょうね。」と、お母さんがおっしゃいました。
そのとき、敏ちゃんは、のき下にかかっているかごの中の、きりぎりすを見あげていましたが、
「きりぎりすにもお母さんはあるの?」と、ききました。
「それは、あるわよ。敏ちゃん、逃がしておやりよ。」と、姉さんがいいました。
「かわいそうだから、僕、いやだ。」
「かわいそうだから、逃がしてやるのよ。」
「雨がふったり、風が吹いたりするじゃないか。」
「それはしかたがないわ、やぶの中に住んでいるのだもの。それよりか、こんなせまいかごの中に入れておくほうが、よっぽどかわいそうだわ。」
姉さんと敏ちゃんとは、そんなことをいいあっていました。
「もっと大きなかごに入れてやればいいんだ。」と、兄さんがいいました。
「だんだんきゅうりがなくなるから、それより逃がしてやったほうがいいでしょう。」と、お母さんがおっしゃいました。
敏ちゃんは、くもの話から急に自分のきりぎりすが問題になったのが、わからないような、理由がないような気がしましたが、考えているうちにだんだん、こうしてきりぎりすをかごの中に入れておくことは、よくないように思われたのです。
「逃がしてやったら、お母さんにあえる?」
「それは、わからないけれど、きっとよろこぶにちがいありません。」
とうとう、敏ちゃんは、かわいがっていたきりぎりすを、明日逃がしてやることにしました。あくる日は日曜日だったので、姉さんと二人でとおくの田んぼへ持っていって、人に捕らえられないような、また近くにきゅうりの畠のあるようなところへ放してやることにきめました。
「そうものがわかると、敏ちゃんはいい子です。」
「ほんとうにいい子よ。」
「いい子だわね。」
そのとき、敏ちゃんは、お母さんにも姉さんにもほめられました。こんなことは、めったにありません。しかし、あまりうれしくはなかったのです。
いよいよあくる日となって、きりぎりすを逃がしてやりました。所は、徳ちゃんがへびを見たという近くの草やぶでした。さいしょ、かごの中からきりぎりすを出してやると、よろこんでとんでいくと思いのほか、じっとして草の葉の上にとまって動きませんでした。
「弱っているんだね。」と、敏ちゃんはかわいそうになりました。
「いいえ、はじめて広いところへ出て、びっくりしているのだわ。」と、姉さんは、そのおどろいたようなきりぎりすをながめていました。
そのうちに、きりぎりすは長いひげを動かして、草のしげった中へはいっていきました。そのさびしそうなようすが、敏ちゃんの目にいつまでものこっていました。
「やはり、お家においたほうがよかったかな。」と思っていたところへ、徳ちゃんが今日、へびの話をしたからです。
なるほど、へびというようなおそろしいものが、やぶの中に住んでいることに気がつかなかったと、敏ちゃんは後悔をしました。しかし、そんなことをいまさらお母さんや姉さんにいってもしかたがないと思ったので、自分ひとりで逃がしてやったきりぎりすのことを思い出していたのでした。
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