愛は不思議なもの
小川未明
生活に差別のあるのは、ひとり、幾万の人間の住んでいる都会ばかりでありません。田舎においても同じであります。その村は、平和な村でありましたけれど、そこに住んでいる人々は、みんな幸福な身の上というわけではありませんでした。
おしずは、小さい時分に、父母に死に別れて、叔母の家で育てられた孤児でありました。そして、十七、八のころ、村のある家に奉公したのであります。その家の人たちは、情けある人々でした。
「おしずは、両親も、兄妹もないのだから、かわいがってやらなければならぬ。」といって、そこの人たちは、いたわってくれました。
彼女は、四つになる坊ちゃんの守りをしたり、家の仕事をてつだったりして、毎日つつましやかに働いていました。
村は、小高いところにありました。春から、夏にかけて、養蚕に忙しく、秋に、また、果物が美しく圃に実りました。大きな池があって、池のまわりは、しらかばの林でありました。暖かになるころから、寒くなるころまで、いろいろの小鳥が、林にきて、いい声でさえずっていました。また、池からは、ふもとの村々の田へかける水が流れていました。
薬売りや、そのほかの行商人が、たまたまこの村にやってきますと、
「いい村だな。」といって、ほめました。
そのはずであります。うっそうと、青葉のしげった間から、白壁の倉が見えたり、楽しそうに少女たちの歌うくわつみ唄が聞こえたりして、だれでも平和な村だと思ったからであります。
ことに、収穫のすむ秋になると、空の色は冴えて、木々の葉が色づき、遠くのながめもはっきりとして、ひとしおでありました。ちょうど、そのころ、お祭りがあります。一年に、一度待たれた休み日ですから、娘たちは、着飾って、きゃっきゃっといって、友だちの家などを歩きまわりました。おしずも、いちばんいい着物に被換えて、お小使い銭をもらって、坊ちゃんをつれて、外へ出ました。けれど、彼女ばかりは、こんなときに、かえって、なんとなくさびしそうでありました。もし、彼女にも、親があったら、ほかの娘たちのように、はしゃいで遊ぶことができたでしょう。
ほんとうをいえば、おしずには、お祭りなどのない、平常のほうがよかったのでした。
「おしずさん、活動を見にいった?」
ある日のこと、友だちが、外に坊ちゃんと立っている、彼女にたずねました。
「いいえ。」と、おしずは、頭を振りました。
「日曜は、昼間もあるし、それに、こんどは、おもしろいという話だから、いってみない?」
友だちは、無邪気に、こういいましたが、彼女は、自由でない、自分の体を考えずにいられませんでした。
「私、坊ちゃんがあるから、どこへもいかれないの。」と、坊ちゃんを見守りながら、答えました。
ちょうど、このとき、トテトーといって、かなたの街道を、二里ばかり隔たる町の方へゆく、馬車のらっぱの音が聞こえました。娘たちはじっと、その方をながめたのです。秋の日を受けて、あかあかとして、松の並木が見えたのでありました。
こんなふうに、おしずは、けっして、ほかの子供のように、幸福であったということはできません。しかし、主人が、思いやりが深かったから、貧しい家の子供らよりは、ときには、しあわせのこともありました。それよりも、彼女の幸福は、ほんとうに坊ちゃんをかわいがっていたことです。
「坊ちゃん、あれ、なんの音でしょう?」
こういって、自分も真剣になって、耳をかたむけながら、遠くの音を聞いたりしました。
「坊ちゃん、また、あんな雲が出ましたよ。」といって、二人で、空をながめたりしました。
「さあ、坊ちゃん、私に、おんぶしましょう。ねえやは、坊ちゃんをおんぶして、どっかへいって、しまいましょうか。」
彼女は、じょうだんをいって、坊ちゃんに、ほおずりをしました。
人が見ていようと、見ていなかろうと、おしずは、よく坊ちゃんのめんどうをみて、心から、かわいがっていました。
「雪や、こんこん、あられや、こんこん。」
子供たちが、寒い風の吹く中を口々に、こんなことをいって、かけまわりました。いつしか、国境の高い山々のとがった頂は、銀の冠をかぶったように雪がきました。もう、この村の池の水が凍るのも間近のことです。
ちらちらと雪が降っては消え、消えてはまた降るというようなことが重なりました。その後で寒い寒い、たたけば、空気も鳴りそうな冬となりました。
ある朝のことです。小さな子供たちは、一、二丁離れた、池の水が凍ったといって、その方へ、足音をたててかけてゆきました。
「もう、きつねが渡ったよ。」
「きつねが渡ったから、乗ったっていいだろう。」
子供たちは、小石を拾って、池の面に投げてみました。なまり色にすこしのすきまもなく、張りつめた氷は、金属のような音をたてて、石は、どこまでも、どこまでもうなりながら、ころがってゆきました。
子供たちは、また、どこからか竹ざおを持ってきて、コツ、コツと氷の面をつつきました。氷は、堅くて、いくら突いても、突いても、跡すらつきませんでした。もう、その上に乗ってもだいじょうぶだろうと、一人乗り、二人乗りしました。そして、そこにいた四、五人の子供は、みんな乗って、これから、毎日、こうして、遊ばれると思うと、新しい世界を征服したように、喜びの声をあげました。
おしずは、さっきまで、家の前に、子供たちと遊んでいた坊ちゃんが見えなくなったので、どこへいったのだろうと探しました。そして、みんな池の方へいったと聞くと、あわててその方へやってきました。
子供たちの遊んでいる声が、かすかに、あちらでしていました。彼女は、びっくりして、
「もう、氷すべりをしているのでないかしらん? 坊ちゃんもいっしょに?」と思うと、胸がどきどきとしました。
池の見わたされるところまでくると、はたして、白い氷の原の上に、子供たちが黒くなって遊んでいました。
「坊ちゃん! 坊ちゃん。」と、叫びながら、彼女は、きちがいのように、走りました。なぜなら、「もう、池を渡っても、だいじょうぶだ。」といううわさを、まだ、だれからも聞かなかったからです。
彼女の叫び声は、冷たい空気の中へ、むなしく消えました。そして、ようやく、あちらのしらかばの林から昇りかけた、朝日の光が、鏡のような氷の面をぽうっと染めたとき、小さな子供の影が、岸の近くから離れて、もっと、もっと、あちらへ飛んでゆくのを見ました。
「坊ちゃあん!」と、彼女は、わめきながら、いつのまにか、自分も、氷の上を駆けていました。そして、だんだん、その小さな黒い影に近づいた時分、彼女の体の重みを支えるほど、まだ厚くなっていなかったとみえて、ふいに、氷は破れて深い水中に落ち込んでしまいました。
幾年かたって、坊ちゃんであった子が、いつしか、少年となりました。そして、両親や、また、村の人々から、自分の守りであった、おしずの話を聞いて、いたく心を動かしました。
「ほんとうに、かわいそうだな。そんなにまでかわいがってくれたのかしらん。どんな顔をしていたろう……。」
少年は、空想しました。冬の寒い晩に、空にきらきら輝く星を見ると、その中に、おしずの霊魂が星となってまじっていて、じっとこちらを見ているのでないかと思いました。ほかの子供たちが、氷すべりをおもしろがってしていますなかに、ひとりこの少年のみは、沈みがちにすべっていました。
「おしずの落ちたのは、この辺だったろうか?」
哀れな少女が、小さな自分の後を追ってきて、氷が破れて落ちた有り様を目に描いたのでした。また、夏の雨の晴れた後などに、この池のあたりを散歩しますと、緑の葉が、雲のようにしげって、静かな水の上に、影を映しています。少年は、じっと、たたずんで水の上を見つめていました。すると、このとき、どこからともなく、マンドリンの音がきこえてきたのでした。
「あ、マンドリンの音だ。どこからするのだろう?」
よく、旅から、やってくる芸人が、月琴や、バイオリンや、尺八などを鳴らして、村にはいってくることがありました。少年は、やはりそんなものがきたのであろうと思いましたが、べつに、あたりには、人の影も見えませんでした。マンドリンの音は、近く、また遠く、きこえたかと思うと、しばらくして、水の中に沈んでいったように聞こえなくなってしまいました。
少年は、家へ帰ってから、今日、池のほとりでマンドリンの音を聞いたが、芸人でもきたのかしらんと話しました。すると、お母さんが、顔の色を変えて、
「これからおまえは、池の辺へ、一人でいってはいけません。」といわれました。
「なぜですか、お母さん?」
「おしずが、おまえを呼ぶのです。」
それは、家にあった、マンドリンを鳴らして、おしずがおまえのお守りをしたというのでありました。
「物置を開けてごらんなさい、マンドリンがあるから。その古いマンドリンを鳴らして、おまえが泣くと、よく唄などを歌ってあやしたものだ……。」と、お母さんは、いわれました。
少年は、そんなこともあったのかと思いました。
それから、また幾年かたったのであります。少年は、いつのまにか、りっぱな、青年彫刻家となっていました。そしてもう田舎にいず、都会に出て生活していました。
十七、八の美しい娘さんたちを見ると、彼は、おしずのことを考え出さずにはいられませんでした。なぜなら、おしずはちょうどそのころに、守りをしていて、自分を救おうとして死んだからです。しかも、孤児であった、彼女は、けっして、幸福とはいえませんでした。それを思うと、青年は美しい人を見ても心をひかれることがなかったのです。
「おしずの顔を一度、夢になりと見たいものだ。そうしたら、その顔を製作するのに……。」と、思っていました。
話に聞いても、おしずは、そんなに美しい女ではなかったということです。けれど、彼には、やさしい、美しい、そして、情け深い、女に思われました。他のどんな美しい女とも、それはくらべものにならないほど、理想の顔に思われました。彼は空想するような顔を探そうとしましたけれど、モデルになるような女はなかなか見当たりませんでした。彼は、せめても、おしずにお守りをされた、当時の四つばかりの自分の顔を写真によって、作ってみようと思いたちました。それを作ることは、彼女への心づくしであるようにすら考えられたからです。
彼は、おしずの死んだ、寒い冬のころから、その顔の製作にかかりました。こんな顔をして自分は、氷の上に遊んでいたのだと、思いたかったのでした。そして、この製作はようやく、春になってからできあがりました。その仕事の終わった日のことです。彼は、アトリエで、疲れてうとうとといすにもたれて眠っていました。春の月がほんのりと窓のすりガラスを照らしていました。
どこからともなく、マンドリンの音が、聞こえたのです。彼は、驚いて、目をさましました。すると、国から持ってきて、アトリエの壁にかけてあったマンドリンを手に持って、十七、八のみすぼらしいふうをした田舎娘が、それを鳴らしながら、自分の製作した彫刻の前に立って、その顔を見つめているのです。青年は、はっとしました。自分は、夢を見ているのでないかと、大きく目をみはりました。髪のこわれた、短い着物をきた田舎娘は、まぼろしでも、夢でもないように、はっきりと立っていたのです。
彼は、あまりのことに、いすから起きて、声をたてました。すると、たちまち、その姿はどこへともなく消えてしまいました。
「やはり、夢かしらん。いやこんなに、目を開けているのだから、夢じゃない。」
彼は、へやの中を見まわしますと、古い、糸の切れた、マンドリンは、ほこりのかかったまま壁にかかっていました。そして、月の光は、おぼろに、窓の外を照らしていました。彼は、その窓を開けました。春の夜は、静かに更けていました。どこからともなく、花の香りがただよってきたのです。