青い花の香り
小川未明
のぶ子という、かわいらしい少女がありました。
「のぶ子や、おまえが、五つ六つのころ、かわいがってくださった、お姉さんの顔を忘れてしまったの?」と、お母さまがいわれると、のぶ子は、なんとなく悲しくなりました。
月日は、ちょうど、うす青い水の音なく流れるように、去るものです。のぶ子は、十歳になりました。そして、頭を傾けて、過ぎ去った、そのころのことを思い出そうとしましたが、うす青い霧の中に、世界が包まれているようで、そんなような姉さんがあったような、また、なかったような、不確かさで、なんとなく、悲しみが、胸の中にこみあげてくるのでした。
「そのお姉さんは、いまどうしていなさるの?」と、のぶ子は、お母さまに問いました。
「遠方へ、お嫁にいってしまわれたのよ。」と、お母さまも、その娘さんのことを思い出されたように、目を細くしていわれました。
「遠方へってどこなのですか。」と、のぶ子は黒い、大きな目をみはって、お母さまにききました。
「幾日も、幾日も、船に乗ってゆかなければならない外国なんだよ。」
こう、お母さまがいわれたときに、のぶ子は思わず、目を上げて、空の、かなたを見るようにいたしました。
「ほんとうに、いま、そのお姉さんがおいでたなら、どんなにわたしはしあわせであろう。」と、のぶ子は、はかない空想にふけったのであります。しかし、その願いもかまわないばかりか、せめて、そのお姉さんの顔を一目でもいいから見たいものだと思いました。
「お母さま、そのお姉さんは、どんなお方でしたの?」と、のぶ子は、どうかして、そのかわいがってくださったお姉さんを、できるだけよく知ろうとして、ききました。
お母さまは、また目を細くして、過ぎ去った日を思い出すようにして、
「それは、美しい娘さんだったよ。みんな通りすがる人が、振り向いていったもんです。」と、いわれました。
「どうか、そのお姉さんの写真でも見たいものです。」と、のぶ子は、ほんとうにそう思いました。
「いまごろ、どうなされたか。ほんとうに写真があったら、いいのだけれど……。」と、お母さまは、その後、たよりのない、娘さんのことを思い出して、やはりのぶ子と同じような悲しみを感じられたのでありました。
その年の秋の、ちょうど彼岸ごろでありました。外国から、小さな軽い紙の箱がとどきました。
「だれから、きたのでしょうね。」と、お母さまはいって、差出人の名まえをごらんなさったが、急に、晴れやかな、大きな声で、
「のぶ子や、お姉さんからなのだよ。」といわれました。
そのとき、のぶ子は、お人形の着物をきかえさせて、遊んでいましたが、それを手放して、すぐにお母さまのそばへやってきました。
「わたしをかわいがってくださったお姉さんから、送ってきたのですか?」と、のぶ子はいいました。
「ああ、そうだよ。」
お母さまは、その小さい、軽い箱のひもを解きにかかりながら、
「なんでしょうね?」といわれました。
秋の静かな、午後でありました。弱い日の光が、軽い大地の上にみなぎっていました。のぶ子は、熱心に、母が、箱を開けるのをながめていました。やがて、包みが解かれると、中から、数種の草花の種子が出てきたのであります。
その草花の種子は、南アメリカから、送られてきたのでした。「きっと、美しい花が咲くにちがいない。」と、みんなは、たのしみにして、それを黒い素焼きの鉢に、別々にして植えて大事にしておきました。
ほんとうに、久しぶりで、そのお姉さんからは、たよりがあったのです。そして、その手紙の中には、「のぶ子さんは、どんなに大きく、かわいらしく、おなりでしょうね。」と書いてあったのです。
この種子を土に下ろした日から、花の咲く日が待たれました。その年も暮れて、やがて翌年の春となったのであります。
「お母さん、南アメリカの温かいところに育つ花ですから、こちらでは咲かないかもしれませんね。」と、のぶ子は、ある日、お母さまに向かっていいました。
このとき、もう、黒い素焼きの鉢には、うす紅い芽や、ねずみ色に光った芽が出ていました。
「よく、日の当たるところに移して、大事にしてごらんなさい。」と、お母さまは、それに対して答えられました。
春の彼岸が過ぎて、桜の花が散ったころ一つの鉢から真紅な花が開きました。その花は、あまりに美しくもろかったのであります。そして、その日の黄昏方、吹いてくる風に散ってしまいました。
もう一つの鉢からは、青い色の花が咲きました。しかし、このほうは、珍しく、元気がよくて、幾つも同じような花を開きました。そのうえ、ほんとうになつかしい、いい香りがいたしました。
のぶ子は、青い花に、鼻をつけて、その香気をかいでいましたが、ふいに、飛び上がりました。
「わたし、お姉さんを思い出してよ……。」こう叫んでお母さまのそばへ駆けてゆきました。
「わたし、あの、青い花の香りをかいで、お姉さんを思い出したの、背のすらりとした、頭髪のすこしちぢれた方でなくって?」といいました。
「ああそうだったよ。」と、お母さまは、よくお姉さんを思い出したといわぬばかりに、我が子の顔を見て、にっこりと笑われました。