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子供は虐待に黙従す(2)
日期:2022-11-01 16:58  点击:299


孤児院からと称して、まだ、年もいかない子供を、軒毎のきごとに立たせて、物を売らせるのや、まだ四つか、五つの子供を地面じべたに坐らせて、通る人々に頭を下げさして、ぜにわしめるのなどを、私は、見る時に、血が逆上する。その者の罪は、まさに死にあたいすると感ずるのである。
この社会には、うるさい程いろいろの法律があるのに、なぜ、この子供を虐待する親達や、大人を取り締まることができないのだ。
子供が、その両親や、祖父母を訴うることを許さずと法律で定めながら、なぜ、子供をも大事にしない親達を厳重に取り締まらないのだ。
子供は、筋肉に於て、智能に於て、いまだ発達を遂げていないのだ。すべてが弱いのだ。ただ愛撫あいぶにのみ待つのである。
子供が、漸く両親の手から離れて、学校へ行くようになったとする。その学校というところはどんなところだ。資本主義の病毒は教化の精神を腐蝕ふしょくし尽くしている。子供は全く自由を奪われ、そこでは競争を強いられ、人間同志が相互に敵視することを学ぶのだ。試験制度は、全く、彼等の想像力と空想力と冒険的精神を磨滅まめつさしてしまう。学校へはいると、もう子供の喜びは奪われてしまうのだ。家庭にある間は、たとえ、両親が無理解であっても、なお野原があった。森があった。はたけがあった。そこにはいつも親愛な花や、虫や、動物や、自然が彼等と共に遊ぶべく待っていた。しかし、学校へはいるとそれにも別れなければならなかった。
少年期から、青年期に至るまでの学校生活は、たしかに牢獄に等しいものだ。
しかし、子供等は、また、これにも黙って服従しなければならない。大人が制定した、この社会の一切のものに対しては、大学時代にもなればいざ知らず、子供の時分は、それに対して怪しむことすら許されないのである。
この故に、私は、子供等の代弁者となり、ために抗議し、主張し、またその世界の一切を語らなければならぬ芸術の必要を感ずる。同時に、一方この時代の少年を慰撫いぶする芸術をも必要なりとするのである。
最近一、二年間、童話雑誌が頻出ひんしゅつして、少年文学に志す人々が多くなったのを見て、私は文壇がようやくこの方面にも覚醒したと思った。そして、このことを限りない喜ばしい現象だと考えた。
けれど、真に、その必要を感じて企てられた雑誌は、僅かに二、三に過ぎなかった。それも、一時は数えきれない程の作家の凡てが、子供を愛する真の純情も、又信念もなかったがために、いたずらに筆をとったに過ぎなかったがために、それらの雑誌すら、今では、毎月の筆者に憂えているような有り様である。
重ねて言うが、彼等は、徒に筆を採ったに過ぎなかった。ただ子供のものを書くのは楽だというような誤った見解から漫然として筆を採り、それを金に換えたまでの話だ。このことは、却って少年を毒し、ようやく生まれんとした真面目な少年文学の前途に一抹の害毒を流したのみであることは、多言を要しない。
彼等には、ほんとうに子供を愛する純情が欠けているのだ。また将来の新社会を造るものは子供であるという、社会的自覚の観念にも欠けているのだ。
このことは、今日の日本の文壇にとって、その無気力を意味し、たとえ恥辱とはなっても、決して名誉とはならないのである。革新期に際しては、一方に、大胆なる破壊はなされても、他方に、また細心の建設的用意がなければならぬ筈である。
畢竟するに、子供の文学の盛んにならないのは、以上のような理由があるからである。そして、また一方に少年文学に対する、慎重な批評が欠けていたことにも原因するであろう。
私は、文壇のなすべき事業の一つとして、少年文学の興起を望まずにはいられない。社会はこぞってもっと子供に対して、誠実を尽くすべきだ。
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