さだめし高価 のものであろうと思 いながら聞 いてみますと、はたして相当 な値 でした。しかし、ほしいと思 ったものは、無理 をしても手 にいれなければ、気 のすまないのが、こうした好事家 の常 であります。男 は、それを求 めて、家 に帰 りました。
彼 は、どんなに、その一つのさかずきを手 に入 れたことを、うれしく思 ったでしょう。
「どうして、このうすいさかずきが、こわれずに、今日 まで残 っていてくれたろう。そして、ほかの人 の目 にとまらずに、俺 の目 にとまってくれたろう? 不思議 にも、また、ありがたいことだ。きっと、世間 の人 は、利助 という名人 をまだ知 らないからだろう。これに描 いてあるねずみの絵 はどうだ? この藍 の冴 えていて、いまにも匂 いそうなこと、金色 の――ちょうの翅 を彩 った、ただ一点 ではあるが、――溶 けそうに、赤 みのある光 を含 んでいること、ほんとうに、驚 くばかりだ。」
彼 は、さかずきを手 に取 ったまま、ぼんやりとしていました。街 の暮 れ方 となりました。さまざまの物売 りの呼 び声 がきこえてきたり、また人々 の往来 の足音 がしげくなって、あたりは一時 はざわめいてきました。こうして、やがては、しっとりとした、静 かな夜 にうつるのでした。
彼 は、この黄昏方 に、じっとさかずきを手 に取 って、見入 りながら、利助 というような名人 が百年前 の昔 、この世 の中 に存在 していたことについて、とりとめのない空想 から、夢 を見 るような気持 ちがしたのです。
彼 は、うれしさをとおりこして、あるさびしさをすら感 じました。そして、夜 、燈火 の下 に膳 を据 えて、毎晩 のように酌 む徳利 の酒 を、その夜 は、利助 のさかずきに、うつしてみたのです。
「まあ、これを見 い。ねずみが浮 いて、いまにも飛 び出 しそうだ。」
彼 は、家内 のものを呼 んで、利助 の作 ったさかずきの中 をのぞかせました。
みんなは、陶器 について、見分 けるだけの鑑識 はなかったけれど、そういわれてのぞきますと、さすがに名人 の作 だという気 が起 こりました。
「ねずみの下 にある、実 のなっています草 は、なんでございましょうか?」と、女房 はきいた。
「これは、やぶこうじだ。なんといいではないか。」と、彼 は、こう答 えて見 とれました。
「ようございますこと。」
「ここが、名人 じゃ、自然 の趣 きが、こんな小 さなさかずきの中 にあふれている感 じがする。」
「しかし、よく、こんなさかずきが、見 つかりましたものでございますこと。」
「世 の中 には、ほんとうの目 あきというものは少 ないのだ。」
「いくら、名人 が出 ましても、ほんとうにわかる人 がなければ、知 られずにしまうのでございましょうね。」
「そうだ。」
彼 は、こんな話 をして、当座 は、名人 の作 ったさかずきが、手 にはいったことを喜 んでいました。
「このさかずきだけは、わらないようにしてくれ。」と、彼 は、家内 のものに、よくいいきかせました。
女房 をはじめ、家内 のものは、そのさかずきを取 り扱 うことが怖 ろしいような気 がしました。
「どうか、このさかずきは、箱 にいれて、しまっておいてくださいませんか。わるとたいへんでございますから。」と、女房 は、あるとき、彼 に向 かっていったのでした。
彼 は、しばらく、黙 って考 えていました。そして、頭 を上 げて、おだやかな顔 つきをして女房 を見 ました。
「注意 をして、それでわったときはしかたがない。なるほど、このさかずきもたいせつな品 には相違 ないが、人間 は、もっとたいせつなものをどうすることもできないのだ。こうして、このさかずきを愛撫 する私 どもも、いつまでもこの世 の中 に生 きてはいられるのでない。さかずきも大事 だが、だれの力 でもそれより大事 な自分 の命 をどうすることもできないのだ。そのことを思 えば、なにものにも万全 を期 することはかなわないだろう。」と、彼 はいいました。
長 い間 の江戸時代 の泰平 の夢 も破 れるときがきました。江戸 の街々 が戦乱 の巷 となりましたときに、この一家 の人々 も、ずっと遠 い、田舎 の方 へ逃 れてきました。そして、そこで、余生 を送 ったのであります。
江戸 から、田舎 へのがれてくる時分 に、みんないろいろなものを捨 てて、着 の身 着 のままで逃 げなければなりませんでした。女 は、平常 たいせつにしていた、くしとか、笄 とか、荷物 にならぬものだけを持 ち、男 は、羽織 、はかまというように、ほかのものを持 っては、長 い道中 はできなかったのです。
しかし、彼 は、利助 のさかずきを持 ってゆくことを忘 れませんでした。田舎 の人 となりましてからも、彼 は、利助 のさかずきを取 り出 してながめることによって、さびしさをなぐさめられたのであります。
こうして、彼 は、晩年 を送 りました。そして、高齢 でこの世 の中 から去 ったのであります。彼 が、なくなっても、そのさかずきだけは、完全 の姿 で後 まで残 りました。
彼 の女房 は、いまおばあさんとなりました。そして、彼女 が、生 きながらえている間 は、毎晩 のように、利助 のさかずきに酒 をついで、これを亡父 の御霊 の祭 ってある仏壇 の前 に供 えました。
「お父 さんは、このさかずきがお好 きで、毎晩 このさかずきでお酒 をめしあがられたのだ。」と、彼女 は、いいながら、線香 を立 てて、かねをたたきました。
そのそばで、老母 のするのを見 ていた子供 らは、
「そのさかずきは、いいさかずきなんですか。」と、ききました。
「ああ、なんでもいいさかずきだと、お父 さんはいっていられた。これをわらないように大事 になさいよ。これだけが、この家 の宝 だと、いってもいいんだから。」と、老母 はいいました。
子供 らは、うなずきました。そして、そのさかずきを大事 にしました。
やがて女房 も、この世 から去 るときがきました。子供 らは、母 の御霊 をも亡父 のそれといっしょに仏壇 の中 に祭 ったのであります。そして、母 が生前 、毎晩 のように、酒 をさかずきについであげたのを見 ていて、母 の亡 き後 も、やはり仏壇 に酒 をさかずきについであげました。
あるときは、仏壇 に、赤 くなった南天 の実 が徳利 にさされて上 がっていることもありました。そして、その青 い葉 と赤 い実 のささった下 に利助 のさかずきは、なみなみとこはく色 の酒 をたたえて供 えられていました。
あるときは、清 らかな、響 きの澄 んだ、磬 の音 が、ちょうどさかずきの酒 の上 を渡 って、その酒 の池 がひじょうに広 いもののように感 じられることもありました。そして、ろうそくの火影 がちらちらとさかずきの縁 や、酒 の上 に映 るのを見 て、そこには、この現実 とはちがった世界 があり、いまその世界 が、夕焼 けの中 にまどろむごとく思 われたこともありました。
子供 らは「仏 さまのさかずき」だといって、そのさかずきをたいせつにしていました。そのさかずきをみだりに手 に取 ってみることも、汚 れるからといってはばかりました。
さかずきは、仏壇 のひきだしの中 に、いつもていねいにしまわれてありました。そして、晩方 になると取 り出 されて酒 をついで上 げられました。やがて、ろうそくの火 がともりつくした時分 に、磬 をたたいて、さかずきの酒 は、別 のさかずきの中 に移 されました。
「おじいさんのめしあがった後 の酒 は、味 がうすくなった。」といって、息子 は、その酒 を自分 で飲 みました。
大事 なさかずきだからというので、息子 が、そのさかずきに酒 をついで上 げたり、また、下 ろさなかったときは、彼 の女房 がいたしました。女房 は、真 の父 、母 の子供 ではなかったけれど、もっともよく息子 の心持 ちを理解 していたからです。そして、いつしか、彼 と同 じように、先祖 の霊 に対 して、それをなぐさむることを怠 らなかったからです。
しかし、たとえ、いかように、心 づくしをしても、もう、死 んでしまった人 は、永久 にものをいわなければ、こたえもしない。仏壇 に、ささげられたさかずきの酒 は、ほんとうに一滴 も減 じはしなかったのです。
「好 きな酒 を上 げても、お父 さんは、めしあがらなければ、お菓子 を上 げても、お母 さんは、お好 きだったのに、めしあがりはなさらない。」と、息子 は、あるときは、仏壇 の前 に立 って、涙 ぐんでしみじみといったことがありました。
田舎 は、変化 が乏 しいうちに月日 はたちました。冬 の寒 い朝 、仏壇 に、燈火 がついているときに、外 の方 では、子供 らが、雪 の上 で凧 を揚 げている、籐 のうなり声 がきこえてくることがありました。雪 が凍 って、子供 らは、自由 に、あちらこちら飛 んで歩 きました。
「どうして、このうすいさかずきが、こわれずに、
「まあ、これを
みんなは、
「ねずみの
「これは、やぶこうじだ。なんといいではないか。」と、
「ようございますこと。」
「ここが、
「しかし、よく、こんなさかずきが、
「
「いくら、
「そうだ。」
「このさかずきだけは、わらないようにしてくれ。」と、
「どうか、このさかずきは、
「
しかし、
こうして、
「お
そのそばで、
「そのさかずきは、いいさかずきなんですか。」と、ききました。
「ああ、なんでもいいさかずきだと、お
やがて
あるときは、
あるときは、
さかずきは、
「おじいさんのめしあがった
しかし、たとえ、いかように、
「