さまざまな生い立ち
小川未明
日にまし、あたたかになって、いままで、霜柱が白く、堅く結んでいた、庭の黒土が柔らかにほぐれて、下から、いろいろの草が芽を出してきました。
「お父さん、すずらんの芽が、だんだん伸びてきましたよ。」と、庭に出て、遊んでいた少年が、奥の方に向かっていいました。
へやで、お父さんは、本を読んでいられた。
「兄さん、どこに、すずらんが芽を出したか、僕に見せておくれよ。」と、弟がそこへ飛んできました。
春の風は、青々と晴れた空を渡っていました。そして木々の小枝は、風に吹かれて、なにか楽しそうに小唄をうたっていたのです。つい、このあいだまで、ねずみ色に低く漂っていた冬の雲は、どこへか消えてしまって、そしてその下に、だまってふるえていた木立の姿は、思い出しても夢のような気がします。
「すずらんが、芽を出したかな。」と、お父さんは、日の照らす、庭の方を見ながら、書物から目をはなしました。
みんなは、田舎から、こちらへ持ってきた、すずらんが新しく、芽を出して咲くことが、どんなにうれしかったかしれません。なぜならこちらでは、すずらんは珍しい草であったからです。
「お父さん、しゃくやくも、紅い芽を出しましたよ。また今年も、きれいな花を咲くでしょうね。ああ、☆げんぶきも芽を出しましたよ。」
兄と弟は、しきりに庭さきを飛びまわって、うれしそうに叫んでいました。お父さんも、いつか庭へ出て、みんなと、春のめぐってきたのを喜んでいたのでした。
それらの草の芽は、しだいに太く、伸びていきました。その間に、木々のこずえは、花のしたくをして、土の上と木の枝と、どちらが、早く花を咲くか、さながら上と下とで競争しているごとくに思われました。
しかし、こちらは、こうして、暖かになったけれど、すずらんの生えていた、北の国の野原は、まだ雪が深く風が寒かったのです。去年の春、子供たちは、お父さんにつれられて、おばあさんや、おじいさんの住んでいなされる田舎へいったのでした。そして、帰る時分に、丘や、野原に咲いていた、すずらんを幾株か、土産に持ってきたのでした。
「おまえたちは、あのすずらんの咲いていた、野原を忘れはしないだろうね。」お父さんは、兄と弟に向かって、問われました。
「よく覚えています。」と、兄のほうは答えました。
「なんで忘れるものか。もう一度いってみたいな。」と、弟のほうがいいました。
すると、お父さんは、笑って弟の顔を見ながら、
「早く帰りたい、帰りたいといったでないか? お父さんは、こんなさびしいところに生まれたんですか? といったのは、だれだったろう?」と、いわれました。
二人の子供は、その時分のことを思い出して目を輝かした。ほんとうに、さびしい北国の景色が、ありありと浮かんできたのです。
毎日、毎日、春だというのに、空は曇りました。そして雪が降る日もあった。風はいつまでも暖かにならなかった。
「このあたりの木は、太陽の光よりは、風と雪の中に育ったようなものだ。」と、お父さんがいわれたことまで思い出されたのでした。
雪に、長い間埋もれ、また頭を押さえられたりした木は曲がりくねっていました。そして、草ははげしい風に吹かれるので、大きく伸びることができなかったのでした。
「お父さん、どこからか、いい香いがしてきますね、なんの花でしょう。」と、子供たちは、野原を歩いているときに、お父さんにたずねたのでした。
「いい香りがする。あれは、すずらんの花の匂いだよ。」と、お父さんはほど近くに、白い咲いている花を見つけて教えられました。
子供たちは、さっそく、その花のところへ走っていきました。なんという白く、清らかな花であろう。そしてなつかしい香を、たたえているであろう。
小鳥が、どこかで鳴いていました。ようやく浅緑の芽をふいた木立は、喜ばしげに踊っていました。空を仰ぐと雲が流れています。春には、ちがいなかったけれど、なんというさびしい春であろうと思った。
「お父さん、早く、東京のお家へ帰りましょう……。」と、弟はいいました。
「なぜ?」
「さびしいんですもの……。」
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