白いくま
小川未明
そこは、熱い国でありました。日の光が強く、青々としている木立や、丘の上を照らしていました。
この国の動物園には、熱帯地方に産するいろいろな動物が、他の国の動物園には、とうてい見られないほどたくさんありましたが、寒い国にすんでいる動物は、なかなかよく育たないものとみえて、あまり、数多くはありません。その中に、一ぴきの白いくまが、みんなから珍しがられ、またかわいがられていました。
なにしろ、木立の柔らかな葉が、きらきらと光って、いつかはあめのように溶けてしまいそうにみえるほどの熱いところでありましたから、寒い、寒い、氷山の上にすんでいるしろくまを飼っておくことは、まったく容易ではなかったのでした。
大きな水たまりを造って、その中へ、氷のかけらを投げいれておきます。くまは、熱さにこらえられないので、幾度となく、その水の中に浸ります。そして、バシャバシャと水をはねかえして、冷たい氷水を浴びたときだけ、わずかに、自分の生まれた北の故郷にいた時分のことを思い出したり、また、ちょっと、その当時の気持ちになったのであります。
あちらには、どんよりとして、いつも眠っているような海が見えました。その海は、おしで、盲目なのだった。なぜなら、ものすごい叫びをあげている波は、みんな口を縫われてしまって、魚のうろこのように、海はすっかり凍っていたからであります。そして、氷山が、気味悪く光って、魔物の牙のように鋭く、ところどころに、灰色の空をかもうとしていたからです。
脂肪のたくさんな、むくむくと毛の厚いしろくまはそこを平気で歩いていました。また、氷が解ける時分になれば、険しい山の方へのこのこと帰ってゆきました。広い寂しい天地の間を自由にふるまうことができたのでした。
それが、いまどうでしょう。熱い、熱い、知らない国に連れてこられて、狭い鉄のおりの中へいれられてしまったのです。はじめのうちは、腹だたしいやら、残念やらで、じっとしていることができませんでした。かんしゃくまぎれに鉄の棒を折り曲げて、外へ暴れ出してやろうと、何度となく、そのおりの鉄棒に飛びついたかしれません。
力の強いくまは、いままで、こんなに、体の中にあった力をすっかり出したことはなかったのです。なぜなら、その必要がなかったのでした。いま、いくら力を出しても、すべてが無効であることを知ったときに、くまは、はじめて人間が、自分より智慧のある動物だということをも知ったのでした。
「これは、もう、力ずくでいってはだめだ。」と、くまは考えました。
彼は、しばらく、人間がなにをしようと、するままに黙って、見ていようと思いました。くまは、人間は、けっして、これ以上なんにもしないということを知ったのであります。
毎日、白い布を頭にかぶった、青い色の服を着た男が、生肉の切れを持ってきてくれました。くまは、それを食べながら、「なんというまずい肉だろう。」と、考えたのです。ぴちぴちはねている生き物を自分の手でしっかり押さえつけて、頭がらガリガリとかじるのにくらべては、歯ごたえがなかった。彼は、もう一度氷山の上で、逃げてゆこうとする動物を追いかけていって、それをつかまえて、食べてみたいと思いました。
食べ物は、まあ、これでもしかたがないが、暑いのには、こまってしまいました。すると白い布をかぶった男が、大きな氷の塊を水の中へ投げ込んでゆきました。くまは、ザブリと躍り込んで浸りました。浸ったかと思うと、また躍り上がりました。ちょっと、その瞬間だけいい気持ちがしたのでした。
「人間は、なんていうけちな奴だ。あの海はすっかり凍っているじゃないか? また氷山の氷をいくらでも持ってくればいいじゃないか。それだのに、これんばかりしか、氷をここへは持ってこない。こんなけちんぼうで、そのうえ、力の弱いくせに、よくあんなに強い棒を造ったものだ。いや、あのときは俺がどうかしていたのだろう。この力で、あんな細いものがへし折れないはずはないのだ……。」
白いくまは、ふいに、そんなことが頭に浮かぶと、どっと暴風のように、鉄の格子に飛びついて破ろうとしました。しかし、やっぱりだめでした。
けれど、このすばらしい勢いで、見物人がみんなびっくりして、声をたてました。くまはそれをせめても痛快がったのであります。
そんなようなことも、このくまが、ここにきたはじめのうちのことでした。しまいには、このおりの中にも、人間にも馴れてしまいました。人間は思ったよりはやさしかったからです。
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