茶屋の
主人は、
家族のものをみんな
山から
下ろしてしまって、
自分だけが
残り、あとかたづけをしてから
山をおりようとしていました。
雪が
見えて、また
来年ともなって、
木々のこずえに
新しい
緑が
萌し、
小鳥のさえずるころにならなければ、ここへ
上がってくる
用事もなかったのでした。
彼は、
費い
残りのしょうゆや、みそや、
酒や、お
菓子などの
始末もつけなければならぬと
思っていました。
「また、きょうも
人の
顔を
見なかったな。」
そのとき、
障子の
破れ
目から
吹き
込んだ
風は、
急に
寒くなって
身に
浸み
入るのを
覚えたのでした。
「どこか、
近くの
山へ
雪がやってきたな。」と、
主人は、
思いました。そして、
明日の
朝にでも、
外へ
出て、あちらの
山を
見たら、
白くなっているであろうと、その
山の
姿を
目に
想像したのでした。
音ひとつしない、
寂然としたへやのうちにすわっていると、ブ、ブーッという
障子の
破れを
鳴らす
風の
音だけが、きこえていました。
「
去年も、この
月半ばに
山を
下りたのだが、
今年は、いつもより
冬が
早いらしい。」と、
主人は、
立って、
窓の
障子を
開けて、
裏山の
方をながめました。
夕日は、もう
沈んでしまって、
怖ろしい
灰色の
雲が、
嶺の
頂からのぞいていました。このとき、キイー、キイーとさるのなき
声がしたので、
彼は、
雪が
降って、
山奥からさるが
出てきたのを
知りました。そして、まだ
鉄砲の
手入れをしておかなかったのを、
迂濶であったと
気づいたのです。その
翌日、
昼すぎごろのこと、
入り
口へなにかきたけはいがしたので、
見ると
怪物が
顔を
突き
出していました。
主人は、びっくりして、
声も
立てられずにしりもちをつきました。なぜなら、
意外にも
大きなくまだったからです。
彼は、もう
命がないものと
思い、
体じゅうの
血が
凍ってしまいました。
「どうぞ、お
助けください。」と、
心の
中で、ひたすら
神を
念じたのでした。
けれど、くまは、すぐに
飛びかかってはこなかった。かえって、なにか
訴えるような
目つきをして、
手にはかきの
木とまたたびのつるを
握っていました。そして、いよいよくまが、
彼に
危害を
加えるためにやってきたのではないことがわかると、
「
命さえ
助けてくれたら、なんでもきいてやるが。」と、おそるおそる
顔を
上げて、
彼は、くまのすることを
見たのでありました。くまは、さも
同意を
求めるように、ただちに、
酒だるの
前にきて、じっとそれに
見入っていたのです。
「ははあ、
酒がほしくて、やってきたのか。」と、
主人は
悟りました。
「もし、
俺が、
酒をやらなければ、くまは、きっと
怒って、
俺をかみ
殺すにちがいない。どのみち
敵だ! いっそたくさん
酒を
飲ませて、
酔いつぶしてから、やっつけてしまおうか?」
主人の
頭の
中には、この
瞬間、すさまじい
速力で、さまざまな
考えが
回転しました。
「ばかな、この
大きなくまに
思う
存分、
酒を
飲ませるなんて、そんな
酒がどこにあるか。
神さまは、この
瀬戸際で、
俺が、どれほどの
智恵者であるか、おためしなされたのだ。まず、この
高い
酒をやらぬ
工夫をしなければならぬ。」
彼は、もうすっかり
打算的になっていました。たなの
上から
徳利を
下ろして、
奥へ
持ってはいると、やがてもどってきてたるの
酒をうつすようすをして、
徳利を
振ってみせました。
酒が、チョロ、チョロと
音をたてて
鳴りました。くまは、
信ずるもののように、おとなしくしていましたが、やがて
持ってきた、かきとまたたびをそこへ
捨てると、
徳利を
抱えるようにして、まるまる
肥ったからだで、
前の
山道を
後をも
見ずに、
駆けて
去りました。
長年山に
住んでいて、
獣物にも
情けがあり、また
礼儀のあることを
聞いていた
主人は、くまが、
酒を
買いにきたのだということだけはわかったのです。
「なにか、
山の
中で、
獣物たちの
催しでもあるのかもしれない。」と、
思いました。
それよりか、
自分が、
損をせずに、うまく
危険から
脱れたことを
喜んだのでありました。
「
長く
山にいると、ろくなことはない。
早く
村に
下りよう。」と、
主人は、
考えました。
この
日、
山の
獣物たちは、
老いざるの
指揮に
従って、
行列を
整えて、
嶺から
嶺へと
練って
歩きました。
先頭には、かわいらしいうさぎが、つぎにおおかみが、そして、
徳利を
持ったくまが、きつねが、りすが、という
順序に、ちょうど、さるが、
岩の
上で
見た、
天上の
行列そのままであったのです。ことに
人間が、
足跡を
絶ってから、まったく
清浄となった
山中で、
彼らは、あわただしく
暮れていく、
美しい
秋を
心から
惜しむごとく、一
日を
楽しく
遊んだのでありました。やがて、
彼らの
列がある
高い
広場に
達したときに、かつて
天上の
神々たちよりほかには
知られていなかった
芸当をして、
打ち
興じたことでありましょう。
そのころ、
峠の
茶屋の
主人は、そそくさと
山を
降りる
仕度をしていました。
酒だるの
上には、くまが
置いていった、かきや、またたびまで
載せてありました。
村へ
帰ってからの、
自慢話にするのでしょう。そして、もう
来年の
夏、
客があるまでは、この
小舎にも
用がないといわぬばかりに、
閉めきった
戸の一つ一つに、ガン、ガンとくぎを
打ちつけていました。
彼は、
金鎚をふり
上げながら、
「
酢に
水を
割って
入れてやったが、
獣物たちは、
酒の
味がわかるまいから、たぶん
人間は、こんなものを
飲んでいると
思うことであろう。それとも
酒でないと
悟るだろうか?」
山は
静かであり、
木々の
紅葉はこのうえもなく
美しかったが、
独り
彼はなにか
心におちつかないものを
感じたのでした。
峠を
降りかけると、ざわざわといって、そばの
竹やぶが
鳴ったので、くまが、
復讐にやってきたかと
足がすくんでしまった。しかし、それは、
西風であって、
高い
嶺を
滑った
夕日は、
雪をはらんで
黒雲のうず
巻く
中に
落ちかかっていたのです。
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