水盤の王さま
小川未明
去年の寒い冬のころから、今年の春にかけて、たった一ぴきしか金魚が生き残っていませんでした。その金魚は友だちもなく、親や、兄弟というものもなく、まったくの独りぼっちで、さびしそうに水盤の中を泳ぎまわっていました。
「兄さん、この金魚は、ほんとうに強い金魚ですこと。たった一つになっても、元気よく遊んでいますのね。」と、妹がいいました。
「ああ、金魚屋がきたら、五、六ぴき買って、入れてやろうね。」と、兄は答えました。
ある日のこと、あちらの横道を、金魚売りの通る呼び声が聞こえました。
「兄さん、金魚売りですよ。」と、妹は耳を立てながらいいました。
「金魚やい――金魚やい――。」
「早くいって、呼んでおいでよ。」と、兄はいいました。
妹は、急いで馳けてゆきました。やがて金魚屋がおけをかついでやってきました。そのとき、お母さんも、いちばん末の弟も、戸口まで出て金魚を見ました。そして、小さな金魚を五ひき買いました。
水盤の中に、五ひきの金魚を入れてやりますと、去年からいた金魚は、にわかににぎやかになったのでたいへんに喜んだように見えました。しかし、自分がその中でいちばん大きなものですから、王さまのごとく先頭に立って水の中を泳いでいました。後から、その子供のように、小さな五ひきの金魚が泳いでいたのです。これがため水盤の中までが明るくなったのであります。
「兄さん、ほんとうに楽しそうなのね。」と、妹は、水盤の中をのぞいていいました。
「今度、金魚屋がきたら、もっと大きいのを買って入れよう。」と、兄はちょうど、金魚の背中が日の光に輝いているのを見ながらいいました。
「けんかをしないでしょうか?」と、妹は、そのことを気遣ったのであります。しかし、兄は、もっと美しい金魚を買って入れるということより、ほかのことは考えていませんでした。
「金魚やい――金魚やい――。」
二度めに、金魚屋がやってきたときに、兄は、お母さんから三びきの大きい金魚を買ってもらいました。それらは、いままでいた大きな金魚よりも、みんな大きかったのです。かえって、水盤の中はそうぞうしくなりました。けれど、去年からいた一ぴきの金魚は、この家は、やはり自分の家だというふうに、悠々として水の面を泳いでいました。五ひきの小さな金魚は、おそれたのであるか、すみの方に寄ってじっとしていました。三びきの新しく仲間入りをした金魚のうち二ひきは、ちょいとようすが変わったので驚いたというふうで、ぼんやりとしていましたが、その中一ぴきは生まれつきの乱暴者とみえて、遠慮もなく水の中を走りまわっていました。
三びきの金魚の入ってきたのをあまり気にも止めないようすで、前からいた一ぴきの金魚は、長い間すみ慣れた水盤の中を、さも自分の家でも歩くように泳いでいますと、ふいに不遠慮な一ぴきが横合いから、その金魚をつつきました。
「あんまり威張るものでない。だれの家と、きまったわけではないだろう。そんなにすまさなくてもいいはずだ。」と、ののしるごとく思われました。
前からいた金魚は、相手にならないで、やはりすましたふうで泳いでいますと、乱暴者は、ますます意地悪くその後を追いかけたのです。こんな有り様でありましたから、いつしか五ひきの小さな金魚は夜のうちに、みんな乱暴者のために殺されてしまいました。一月ばかり後まで、生き残っていたのは、前からいる金魚と乱暴者と、もう一ぴきの金魚と、わずかに三びきでありました。
「兄さん、金魚は弱いものね。今度死んでしまったら、もう飼うことはよしましょうね。」と、妹はいいました。
「ああ、金魚よりこいのほうが強いかもしれないよ。」と、兄は答えました。
「兄さん、こいを買っておくれ、毎晩、夜店に売っているから。」と、末の弟がいいました。
その日のことであります。暮れ方、妹は、末の弟をつれて夜店を見にいって、帰りに三寸ばかりの強そうな赤と黒と斑のこいを二ひき買ってきました。そして、それを水盤の中に放ったのです。
月の照らす下で、水面にさざなみをたてて、こいの跳る音を聞きました。それから四、五日もたつと、三びきの金魚は、みんなこいのために、つつかれて殺されてしまいました。後には、二ひきのこいだけが元気よく泳ぎまわっていました。
「とうとう、こいが天下を取ってしまった。」と、兄はいいました。
「ほんとうに憎いこいですこと。」と、妹はいいました。
一日、兄は留守でした。妹は憎らしいこいだからといって、毎日換えてやる水を怠りました。たった、一日でしたけれど、あつい日であったもので、水が煮えて、さすがに威張っていたこいも死んでしまいました。そのときからすでに幾日もたちました。いまだに水盤の中はだれの天下でもなく、まったく空になっています。
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