すいれんは咲いたが
小川未明
金魚鉢にいれてあるすいれんが、かわいらしい黄色な花を開きました。どこから飛んできたか小さなはちがみつを吸っています。勇ちゃんは日当たりに出て、花と水の上に映った雲影をじっとながめながら、
「木田くんは、どうしたろうな。」と、思いました。
二人は、同じ組でいっしょにデッドボールをやれば、まりほうりをして遊んだものです。木田は、小さくなったズボンをはいていたもので、うずくまるとおしりが割れて、さるのおしりのように見えたのも目にうつってきました。
ある日のこと雑誌を貸してやると、
「ふなをあげるから遊びにこない?」と、木田はいいました。
勇ちゃんは、ふながほしかったから、急にゆきたくなりました。
「どうしたの、君が釣ってきたのかい。」とたずねました。木田は、棒切れで砂の上に字をかきながら、
「ああ、お父さんと川へいって釣ってきたんだ。こんど、君もいっしょにゆかない?」と、いきいきとした顔を上げたのであります。
「いつか、つれていっておくれよ。君のお父さん、釣るのはうまい?」
「なにうまいもんか、いつも僕のほうがたくさん釣るのさ。ふなをあげるから、遊びにこない。」と、木田はすすめたのでした。
「いこうか、じゃ、うちへ帰ったら、かばんを置いてすぐにね。」
遊びにゆく約束をしたので勇ちゃんは、その日、木田から教わった道を歩いてたずねてゆきました。すると坂の下のところに、小さなみすぼらしい床屋がありました。
「この床屋かしらん。」と、勇ちゃんは思ったが、まさかこんな汚らしい家ではあるまいというような気もして、その前までいってみると、木田の姿が、すぐ目にはいったのです。
「勇ちゃん、裏の方へおまわりよ。」
木田は、喜んでたずねてきてくれた友だちを迎えました。みかん箱を持ってきて、中からいろいろのものを出して拡げました。珍しい貝がらもあれば、金光りのする石もあり、また釣りの道具もまじっていれば、形の変わったべいごまもはいっていました。
「こんど釣りにゆくとき、さおがなかったなら、僕のお父さんに造ってもらうといいぜ。」と、木田はいいました。木田は、なんでもお父さんにというのです。それで、勇ちゃんが、
「君のお母さんは?」と、きくと、木田は、急にさびしそうな顔つきをして、
「僕のお母さんは、なくなったのだ。お父さんと二人きりなんだよ。だけど、さびしいこともないや。」と、口だけでは、元気にいいました。木田くんのお父さんは、木田によく似ていました。脊が低くて、丸顔でした。白い仕事服を着て、お客の頭を刈っていましたが、それが終わったとみえて、二人の遊んでいるへやへ塩せんべいの盆と、お茶のはいった土びんと持ってきて、
「よくいらっしゃいました。」と、置いてゆかれたのでした。
勇ちゃんは、帰りに、ふなを三匹もらって、ブリキかんの中へいれて下げながら、お母さんのない木田くんのことを考えつつ歩いてきました。
「しかし、やさしい、いいお父さんだな。」と思うと、なぜかしらずに熱い涙が目の中にわいてきました。
その後学校では、二人はいっとう仲よくなりました。
ある日のこと、勇ちゃんのお母さんは、だいぶ髪の伸びた勇ちゃんの頭を見て、
「きょうは、お湯をわかしますから、床屋へいっておいでなさい。」とおっしゃいました。勇ちゃんは、床屋へゆくのがきらいでした。それで、いつもおとなしくいったことがなかったのですが、
「僕のお友だちのうちの、床屋へいってもいいでしょう。」とたずねました。
お母さんは、床屋へゆくのがいやなものだから、また、なにかいいがかりをつけるのだと思いましたので、
「いつもの床屋へおいでなさい。そのお友だちの家というのはどこですか。」とおっしゃいました。
「遠いところで、小さな床屋なんです。」
そばで、この話をきいていたお姉さんが、
「汚い床屋へいって、病気でもうつるといけないから、いつもの床屋へいったほうがいいでしょう。」といわれました。
けれども、勇ちゃんは木田のうちのことを考えると、自分は、どうしてもあすこへゆかなければならぬような気がしました。
「僕は、ほかで頭を刈って遊びにゆくと、なんだか気がすまんのだもの。」といいました。するとお母さんは、その心持ちをお察しになって、
「ほんとうに、そうお考えなら、お友だちのお父さんに、刈っておもらいなさい。」と、おっしゃったのです。
そんなことがあって、以後勇ちゃんは、ずっと木田くんのところへいって、髪を刈ってもらいました。そして、お父さんとも仲よしになりました。
ところが、突然のことでした。木田が学校で、
「勇ちゃん、僕のうち急に引っ越すので転校しなければならんのだよ。だから、きょう遊びにおいでよ。」といいました。
「どこへ引っ越しするの?」
「遠い、浅草の方なんだ。」
その日、勇ちゃんは、学校から帰ると遊びにいきました。
すると、もう店には道具がなかったのです。
「このすいれんをあげよう。クリーム色の花が咲くんだぜ。」と、木田が裏から持ってきました。
「坊ちゃん、よく頭を刈りにきてくださいましたね。勉強してえらい人におなりなさいよ。」と、お父さんがいいました。
ちょうど一年たって、そのすいれんの花が咲いたのです。けれど、木田くんからは、一度もたよりがありません。勇ちゃんは花をながめながら、友だちとお父さんの無事を祈ったのでありました。
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