西の夕焼が紅く、寺の墓畔に立つ胡桃の木の枝を染める時、この景色を見た子供等は、きっと狂人のことを思い出して話し合った。
村の人が、この狂人親子の惨死を遂げているのを発見した時、短刀で、我が児の咽喉を突貫して、自分がその死骸の上に折り合って自殺を遂げていた母を見た。外には、吹雪がしていた。陰気な光線は戸の隙間を洩れて、この火の気すらなかった家を悲しげに照していた。何一つ道具らしいものはなかった。死ぬ時まで、内職をしていた燈心が、黒い、傷の付いた板の辺に散っているのを見た。
その血は青い色をしていた。その燈心の白は、色を抜き取った色の如く、見る人の心を茫然たらしめた。
或る一人はこういった。一昨日の大吹雪に傘も差さずに急いで町の方から、狂人の母親が帰って来るのを見た。鼻緒の弛るんだ下駄は雪に埋って、指は紅く凍えて、見るからに血の枯れた白髪は風に吹かれて傷ましげであった。
村の人々は、何故、母が子を殺して自殺したかを疑った。この上他人に迷惑をかけまいと思ってか? 饑と寒さに堪え兼てか? 中にはこう言ったものがあった。昔は武士の家庭に育った娘だ。これ位の決心はあるだろうと。その者の言った言葉は、其処に立会ていた者に、花の時代を思わしめた。曾て二十、十八九の時分、この老婆は……と様々の幻想を描かしめた。それも束の間であった。今、目の前に、見るに堪えぬ死態をしている。衣物は、薄い単衣で、それすら、破れた肩を幾度となく継いであった。
他の一人は、やや違った解釈をした。それは、何時、年老て自分が死ぬか分らない。自分が死んだ後、誰がこの狂人の世話をしてくれる者があろうか。それより、自分の手にかけて殺し、自分も直にその後を追ってやはり、死んでからも親子であるという考えからやったことだといった。
何故かこの一言は、其処に居た一同を涙ぐませた。村の人は丁寧に二人の死骸を埋葬してやった。
或年の夏、何処からとなく、僧がこの村に入って来た。
今は、この僧が来ると、誰か一人この村で死ぬのでないかという疑を抱かぬ者はなかった。曾て誰やら言った噂を気にせない者はないようになった。
「また、あの坊さんが来た。」と人々は気味悪い眼で僧を眺めた。
子供等は群をなして、僧の後に従いた。それも二三間隔って互にひそひそと話合った。
「あの坊さんが来ると人が死ぬんだと。」七ツ許りの女の児が言うと、
「あの坊主に石を投げてやればいい。」と乳飲児を負っていた子守が言った。
斯様風に、村の人は、この僧を遠ざけようとして、或る者は、村の家々を一軒毎に言い触れて歩いた。物をやるからこの村に入って来るのだ。何もやらなけれや、この村に入って来ない。決して物をやってはならないと言い触れた。中には迷信的に坊さんを有難がっている家もあったが、物をやって、却って村の者から悪まれるようでは馬鹿らしいと言って、坊さんが来ても知らぬ振をしていた。僧は、常の如く、家の前に立って穏かな口調で経を唱えた。磬の音はゆるやかに響いた。戸の隙から、一寸覗いて見ると、やはり眼を閉って何事をか念じているように、太い、白い眉は、何処か、普通の僧でないという感じを抱かせた。
知らぬ振をしていても僧は何時までもこの家の前を去らなかった。迷信家の女は、胸を躍せて、極めて小さな声で、
「お通り下さい。」と言った。赫と顔が熱って、心臓がどきどきした。何となく、女は済まぬような気がした。
この極めて小さな言葉も、僧の耳には、はっきりと入ったが如く思われた。僧は静かにこの家の前を去った。
この時は、村では僧に何も与えたものがなかった。けれど僧は毎日この村を歩いた。一軒残らず家の前に立って、常の如く経を唱え、磐を鳴した。物をやる者はなかったが、僧は務めの如く毎日村を托鉢し歩いた。それが十日もつづくと、飄然何処ともなく姿を隠してしまった。
村の人は、誰しも僧が来なくなったと思い、この後が暫らく不安だと感じないものはなかった。
「やっと坊さんは来なくなった。」と心の上に置れた重い石を取り除けられたような気持で一人がいった。
「暫らく、不安心だ。」と一人は、噂に、動かし難い力のあることを感じて言った。
「文明の世の中に其様ことはない。」と、強いて文明は、何物をも怖しく見せるものでないと、自分の心を文明の二字でまぎらわせようとした。
この三人の会話は、
「暫らく経ちゃ分る。」という落着に終った。
誰が最初、斯様噂をし始めたのかと詮義した。けれどこの噂は出所が分らずにしまった。
僧が去って、五日と経ぬうちにこの村で不幸があった。
人々は今更の如く顔を見合った。
死んだ人は、五十五の男だ。彼は長らく踏切番を務めていた。北の海岸から走って来た電信柱は高低に南へと連っている。彼は、鈍色の光線が照り返っているレールに添うて淋しい野中の細道を見廻った時、彼の水腫のした体は、紺の褪めた洋服を着て、とぼとぼと歩くたびに力の入っていない両手は、無意識に動揺した。
怪物が叫いて、静かな、広い野を地響を打て来た時、眠っている草、木、家は眼醒めた。黄色な窓から頭を出している者で、踏切番の小舎の前に立て白い旗を出していたこの男に眼を止めたものがあろう、或者は、黙って見て過ぎた。或者は唾を吐いて過ぎた。中には哀な老人だ。何様暮しをしているものだろうと考えながら過ぎたものもあろう。
男は、余り口数をきかぬ性質であった。長らく中風に罹っていて左の手と耳が能く働らかなかった。家に居ると、何という木か知らぬが、赤い実の生っている植木鉢を日当に出して水をやっていた。この男の死ぬ前の日もこの赤い実の生っている木に水をやっていたのを見たものがある。
男は、どんよりと曇った朝、近傍の川に釣に出かけた。青い水は足の許まで浮き上っていた。それを見詰めているうちにぐらぐらと眼が暈って来始めた。此処は河だと考えたが、急に畳の上にでも居るような弛んだ気持になって、その儘、倒れると水を呑んで悶掻たが、死んでしまった。
僧(2)
日期:2022-11-18 08:47 点击:218