虫の啼く、粗壁の出た、今一軒の家には老夫婦が住んでいた。爺は老耄して、媼は頭が真白であった。一人の息子が、町の時計屋に奉公していて、毎月、少しばかりの金を送って寄来した。それを頼りに細い烟を上げていた。老夫婦は家の周囲には少しばかりの野菜を植えていた。別に売る程の物を取るのでない、ただそれを取って暮していた。初秋の風が吹いて、唐辛が赤くなると、昼間でも、枯枝の落ちた蔭で虫が啼いた。空は水のように青く冴えて、北へと雁が飛んで行くのが見えた。
朝起きて、取り残した赤い唐辛の傍に行って見ると、昨夜、霜が下りたと見えて、僅かばかり出た青い葉が白く凍えていた。
弱い日の光りが、薄赤い荒壁に当っているのを見るとこの村の盛衰が思い出された。
毎年のように、他国から薬売がこの村に入って来たものだ。まだこの小さな村が洪水で荒されない前、この桑畑に人家が幾軒もあった頃、まだこの村の人が町や、他へ移って行かなかった前までは、人家も可なりあったので、その薬売は、毎年夏になるとやって来た。彼等は、日本国中、何様小さな村でも見舞わずに通り過ぎることがなかった。今年、或家に黄色な薬袋を置て去ると、来年、忘れずにその家を見舞って、古いのを新しいのと取り換えて行った。立去る時に、家の人に振向いて、
「また来年来ますから。」と言った。
その薬売が、来年になってその家へ来た時、昨年取次に出た婆さんは、昨年の秋死んでしまって、居なかったこともあった。
然るにその薬売は、何うしたか、はや二三年も前からこの村を訪れなかった。その他、毎年のようにきまってこの村に入って来た繭買や、余の物売なども来なくなった。其等のものが来なくなったと同時に、いつしか毎年のように来た、彼の僧も来なくなった。この村に長らく住んでいる老夫婦のものは、今でも彼の僧を記憶している。色の褪めた衣を着て、笠を目深に被って家々の前に立って、経を唱え、磐を鳴らし托鉢に歩いた姿を忘れはしない。また、
「あの坊さんが、村に入って来ると、きっと誰か死ぬる。」と云噂のあった事をも忘れはしなかった。
風が吹き、雨が降り、雪となって、年は暮れ、この村が、今の有様となるまでに十余年の月日は流れた。中風症の、踏切番人が溺死してから、この村に幾たびの変遷はあったがそれ以来、彼の僧は稀にこの村に入って来て托鉢をして歩いたが、人々が少くなって村が衰微してから全く来なくなった。もはや幾年となく来ないので、漸く昔話となった。或は何処かでこの僧は横死を遂げたのでないかと思われた。而して再びこの僧が、この村に入って来るなどとは考えられなかった。
然るに突然十年目でこの僧が托鉢にやって来た。
中にも老夫婦の者は眼を白黒して驚いた。もはや自分等の死ななければならない時が来たのかと悲んだ。二人は、一夜、こういって語り合った。今ではこの村に住んでいる者は、暗い森の中の家と私共と、隣の女房の家ばかりだ。たったこの三軒を当にして、坊さんがこの村に入って来なさるとは合点が行かない。やはり今日来た坊さんは昔来た坊さんだろうかと婆が言った。
既に老耄している爺は、この時ばかり気が確かであった。而して断言した。
「十年前に来た坊さんだ。同じい坊さんだ。」夜は暗く、小舎の軒に迫っていた。耳を傾げて家の中の様子を立聞しているようだ。
「あの時分の坊さんなら、もっと年を取っている筈だ。」と婆がいった。
爺は、少しも変った処がない。身形から、様子から、その時の儘であると語った。
婆さんは悲しんで、次のようなことを小声で物語った。
きっと今度死ぬのは私等でない、あの森の中の家の娘さんだと思う。先頃、一寸見た時に真青な顔をしていた。私は、死人の形相だと思った。漆のような髪は顔にかかって眼が落ち窪んで、手足が痩せて、その姿を見た時戦慄とした。私は、もはや長くないと思った。きっと坊さんのお出なされたのは、彼の娘を迎いに来られたのだと思う。
静かな、暗い夜であった。白髪の婆さんと向い合って、歯の抜けた頭の禿げた爺さんが坐っていた。暗いランプは、家の内を心もとなく照していた。
バラバラと窓に当る音がした。けれど婆さんは聞き付けずに尚お語り出した。
「彼大水のあった時より、あの悪病の流行た時が怖しかった。どうしてこの村は、人が長く落付かないだろう。私共も早く悴が一人前となって、店でも出すようになったら、町へ越して行きたいものだ。」
「あ、雨が降って来たな。」と耳を傾げていた爺が言った。
「暮方西の方が、大変に暗かった。静かな晩だから降るかも知れない。」
と婆が言った。
暫らく爺と婆と対い合って黙っていたが、外で雨の降る音がしとしとと聞えた。
「なんで坊さんは、この村にばかり来るんでしょう。」と不審に堪えぬという風で、婆が言った。
「何、この村の者が死に絶えてしまうまでやって来るだろう。」
といって、爺は眼を瞑ったまま下を向いて言った。
僧侶は二三日この村を托鉢して歩いたが何時しか何処にか去った。老夫婦は、暗い森の方を見るたびに、近いうちに柩があの森の中から出るだろうと語り合った。独り留守をしている女房は、遠く、海の鳴音の聞える北の方に思いをやって、夫の身の上を案じていた。土の色は白く乾いて、木の葉は大抵落ちた。圃に残った桑の葉は、黒く凋んだ。天地は終日音もなく、死んだように静かであった。
「雪が、間近に来る。」
と爺は戸口に出て、物を取り片づけながら言った。
空にはただ白い、眤として動かない雲が張り詰めていた。森も、家も、圃も、頭から経帷子を被ったように黙って、陰気であった。
この総べて音の死んだような極めて静かな日に老夫婦に知らせが来た。
町の時計屋に奉公している息子が急病に死んだ――と。