太陽と星の下
小川未明
S少年は、町へ出ると、時計屋の前に立つのが好きでした。そして、キチキチと、小さな針が、正しく休みなく、時をきざんでいるのを見て、――この時計は、どこの工場で、どんな人たちの手で造られたのだろう――と、空想するのでした。
すると、明るい、清潔な、設備のよくいきとどいた、近代ふうの工場が、目の前に浮かび上がります。彼は、いつか自分も、こんな工場へ通って働き、熟練工になるかもしれないと、思ったりするのでした。こうして、町は、少年にいろいろな、たのしい夢を与えてくれました。
ある日、四つつじの角のところへ、新しく美術店ができました。しかし、そこには、新しいものより、古いもののほうが多かったから、むしろ、こっとう店というのかもしれません。
入り口のガラス窓の内には、まるいつぼがおいてありました。
少年は、その深みのある、青い海をのぞくような色に、ひきつけられたのです。
「いい色だな。」と、そのやわらかな感じは、なんとなく気持ちをやわらげました。まだ、なにかあるかと、あたりを見まわすと、おくの方の台に、赤いさらがかざってありました。
これは、夏の晩方、海面へ、たれさがる雲のように、みずみずとして、美しかったので、こんどは、目がその方へ奪われてしまいました。なんでも、その図は、中国人らしい、一人の女が、赤いたもとをひるがえして、おどっているのでした。
少年は、近くそばへ寄って見たかったのだけれど、買えるような身でないから、さすがにその勇気がなく、こころ残りを感じながら、店さきをはなれたのです。
すこしくると、魚屋がありました。店さきの台の上に、大きな切り身がおいてありました。その肉の色は、おどろくばかり毒々しく、赤黒くて、かつて、魚では、こんなのを見たことがありません。
「これは、鯨の肉だな。そうだ、南極からきた冷凍肉だ。人間とおなじく、赤ちゃんをかわいがる哺乳動物の肉なんだ。」
こう思った瞬間、いままでの頭の中のなごやかなまぼろしは消えてしまって、そこには、残忍な、血なまぐさい光景が、ありありと浮かびました。
捕鯨の状況を考えると、たえられない気持ちがして、少年は、途中にある丘にかけ登りました。丘の上には、大きなけやきの木がありました。その根に、腰をおろしたのです。ついこのあいだまで、芽をふいたばかりの新緑が、うす緑色に煙っていたのが、すっかり青葉となっていました。ここからは、あちらまでつづく、町の方が見おろされました。ぴか、ぴかと、線を引くごとく流れるのは、自動車でありました。そのかぶとむしのような、黒光りのする体に、アンテナを立てていて、走りながら、どこかと話したり、また、放送の音楽をきいたりするのです。
「人間は、ほかの動物のできない発明をする。もし、おれが鯨だったら、どうして人間という敵から、のがれることができようか。」と、少年は、空想しました。
もっと、もっと、氷山のおく深く、安全な場所をさがして、はいりこむだろう。いや、それもだめだ、どんなかくれ場でも、人間はさぐる。精巧な機械を持っているし、また、おそろしい武器を持っている。そう考えると、少年には、人間がひきょうに見えました。そして、自分の力よりほかに、たのむことができない鯨がかわいそうになりました。それは鯨とかぎりません。命のとうとさは、強いもの、弱いもの、べつにかわりがないからです。
少年は、世の中の、不公平や、不平等が、つぎつぎにうずまき、頭がつかれたので、やわらかな草の上へ、仰向けになってねころび、目をふさぎました。太陽の光は、やわらかなようでも、するどかったのです。目をとじていても、まぶしかったのでした。
このとき、耳もとへ、ささやくものがありました。大空をわたる、初夏の風が、草の葉を分ける音でした。
「おごるものは、おごらせておくがいいのさ。かならず天罰があたるから。いつ氷河がやってくるかもしれない。あまり不意で、逃げるひまのなかった、マンモスの肉が、まだくさらずに、氷の中から出たというではないか。それどころか、今日にでも、太陽が大爆発をしないとかぎらない。そのときは、地球上のものは、ことごとく焼けてしまうのだ。」
あいづちをうつごとく、どこかの工場から、正午の汽笛が鳴りひびきました。少年は、これを機会に、丘を下りたのでした。
机の前にすわって、雑誌を見ていると、Kくんが、ボールをしないかと、S少年を呼びにきました。
すぐ外へとび出すと、
「畑へ、いこうよ。」と、Kが、いいました。
このころまで、家と家の間の通路となっている路地しか、子供たちにとって、遊び場がなかったのを、ようやく、青物が出まわり、家庭菜園などというものが影を消してから、ふたたび、いままでのごとく、空き地や、原っぱが、子供らの手にかえったのです。したがって、彼らは、あやまって、窓のガラスをわり、しかられることもなく、たのしく、のびのびとして、ボールが投げられるのでした。
まりを投げているさいちゅうでした。
「Kちゃん、君に飛行機が見える。」と、S少年は、なにを思い出したか、手をやすめて、空をながめました。
Kも手をやすめて、おなじく空をながめたのです。
「音はするけど、なんにも見えないね。Sちゃんには見える。」と、Kは、ききかえしました。
「たいへん近く音がきこえるけど、わからない。よっぽど高いところを飛んでいるんだね。」
二人は、しばらく、ボールを投げるのを忘れて、夢中で、飛行機をさがしていました。戦後、彼らの希望は失われたので、せめてその姿だけでも見たかったのです。この瞬間にも、せめて思いきり高く上がって、自由に飛べたらという、あこがれが胸の中を、わくわくさせました。やがて、空は、石竹色から、オレンジ色と変わって、暮れかかったのであります。
すでに、あのときから、はや一週間近くたったであろうか。少年は、あの中国の女のおどっている、赤いさらが見たくなりました。
「散歩してこようか。」
町へくると、いつものごとく、トラック、自転車、自動車が走っていました。さんさんたる太陽が、あらゆる地上の物体を光の中にただよわせていました。少年は、四つつじのところをうろつきながら、
「おれはきつねにばかされているんでないだろうな。」と、自分に向かっていったのでした。
なぜなら、あのこっとう店が、いつのまにかなくなって、見つからなかったからです。そのかわり、そこが葬儀屋となって、真新しい棺おけや白い蓮華の造花などが、ならべてありました。
少年は、しばらく考え込んで、去りかねていましたが、念のため、魚屋の前を通ってみました。すると、魚屋は、前とおなじところにあって、台はかわいて、もうその上には、鯨の肉は見あたりませんでした。
彼は、家に帰ると、この話を兄さんにしたのであります。
「あんまりの変わりかたで、僕、きつねにばかされたのでないかと思った。」
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