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高い木と子供の話(2)
日期:2022-11-18 23:59  点击:239
 


いつからともなく、善吉ぜんきちは、みんなからはなれて、たかのぼって、ひとり、広々ひろびろとした景色けしきたのしむことをこのむようになりました。ほかの子供こどもたちは、善吉ぜんきちをさるとあだづけたのです。かれは、ぞうりをくさなかかくして、たかのぼりさえすれば、いっさい、うるさいなかのことからはなれてしまえば、また、みみくこともなかったのでした。たとえ、母親ははおやが、いくら自分じぶんびながらさがしても、つかる気遣きづかいもなければ、だれだって、自分じぶん姿すがたさがすものはなかったのです。
「しっかり、えだあしをかけて、わきをしてはだめだ。そうだ、もう一だん、もう一だん……。」と、太陽たいようは、大空おおぞらからこえをかけてくれて、にこやかにわらいながら、善吉ぜんきちのぼるのをていました。
「こんなに、よくとおれているが、おまえにはうみかんでいる白帆しらほかげは、えなかろう……。」と、やさしいかぜは、やわらかにいて、善吉ぜんきちのほおをなでてゆきました。やっと、しなしなしなういただきまでのぼってかおすと、
「おまえは、まるでとりのようだな。」と、太陽たいようは、まるかおで、あきれるように、くちけていいました。
「そのえだは、あぶない。そのしたえだあしをかけて、このえだにしっかりつかまっていればだいじょうぶだから。」と、かぜは、しんせつに、善吉ぜんきち注意ちゅういしてくれました。
かれは、いつまでも、こうして、ここで、広々ひろびろとした景色けしきをながめて、空想くうそうにふけっていたかった。脊中せなか子供こどもをおぶわされては、びまわることもできず、くらくなるまで子守こもりをするのは、いやであった。それをいやといえば、母親ははおやにしかられる。「どこかへやってしまうぞ。おまえは、ほんとうは、うちでない、ててあったのをかわいそうにおもって、ひろってきてそだてたのだ。」いつもこんなにいわれる。はたして、自分じぶんは、だったろうか。ほんとうのおかあさんは、ほかにいるのだろうか? うえで、かれはいろんな空想くうそうにふける。
石竹色せきちくいろくもが、かがみのようなきたそらに、あらわれたかとおもうと、それが天使てんしっている姿すがたとなり、やがて、ちいさくなって、とりのようになり、そして、えてしまった。
「おかあさん!」
善吉ぜんきちは、に、いっぱいなみだをためて、ほんとうのおかあさんをんだのでした。いつも、たかのぼって、とおるたびに、ほんとうのやさしいおかあさんが、どこか、うつくしいまちんでいて、やはり、自分じぶんのことをおもっているようながしたのであります。

 


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