谷にうたう女(1)
日期:2022-11-18 23:59 点击:237
谷にうたう女
小川未明
くりの
木のこずえに
残った
一ひらの
葉が、
北の
海を
見ながら、さびしい
歌をうたっていました。
おきぬは、四つになる
長吉をつれて、
山の
畑へ
大根を
抜きにまいりました。やがて、
冬がくるのです。
白髪のおばあさんが、
糸をつむいでいるように、
空では、
雲が
切れたり、またつながったりしていました。
下の
黒土には、
黄ばんだ
大根の
葉が、きれいに
頭を
並べていました。おきぬは
子供がかぜぎみであることを
知っていました。
持ってくるはずのねんねこを
忘れてきたのに
気がついて、
「
長吉や、ここに
待っておいで、
母ちゃんは、すぐ
家へいってねんねこを
持ってくるからな。どこへもいくでねえよ。」
子供は、だまって、うなずきました。
おきぬは、ゆきかけて、またもどってきました。
「ほんとうに、どこへもいくでねえよ。そこにじっとして
待っていれや。」
そういって、
彼女は、
坂道を
駈け
下りるようにして、
急ぎました。
あたりには
人の
影もなかったのです。くりの
木のこずえについていた
枯れた
葉は、
今夜の
命も
知らぬげに、やはり、ひらひらとして、
風の
吹くたびに
歌をうたっていました。そしてふもとの
水車場から、かすかに
車の
音がきこえてきました。
すこしの
間が、
小さな
長吉にとっては、
堪えられないほどの
長い
時間でした。
「おっかあ。」といって、
子供は、
母を
呼んで
泣き
出しました。
しかし、いくら
呼んでも、この
子供の
声は、
下の
村へは
達しなかったでありましょう。
このとき、どこからか、
笛と
太鼓の
音がきこえてきました。それは、
村の
祭りのときにしかきかなかったものです。
山の
林に
鳴く、もずや、ひよどりでさえ、こんないい
声は
出し
得なかったので、
長吉は、ぼんやりと、その
音のする
方を
見ると、
山へ
登ってゆく
道を、
赤い
旗を
立て、
青い
着物をきた
人たちが
列をつくって
歩いてゆきました。そして、その
後から、にぎやかな
子供たちの
話し
声などがしてくるので、
泣くのを
忘れて
見とれていると、
葉の
落ちて、
裸となった
林の
間から、その
列がちらちらと
見えたのです。
長吉は、いそいで、その
後を
追いかけました。
二、三
度も
彼はころんだけれど、
泣きもせずその
後を
追いかけてゆきました。
空で、
糸をつむいでいた、
白髪のおばあさんの
姿が
見えなくなって、
風が
募ってきました。おきぬが
畑にもどってきたときには、くりのこずえにしがみついて
歌をうたっていた
葉が、くるくるとまわって、がけの
底の
方へ
落ちていったのです。
「
長吉や、
長吉や、
長吉はどこへいったろう?」
彼女は、あらしのうちを、さがしまわりました。
山の
上へとつづいている
道は、かすかにくさむらの
中に
消えていました。そして、
山の
頂は
灰色に
曇って、
雲脚が、
速かったのです。
村じゅうが、
大騒ぎをして、
長吉をさがしたけれど、ついにむだでありました。
年寄りたちは、
「
前にも一
度こういうことがあった。
人さらいにつれていかれたか、たぬきにでもばかされたのであろう。」と、
囲炉裏に
粗朶をたきながら
話しました。
それから、
後のことです。
村の
人たちは、
髪を
乱して、
素足でうたって
歩くおきぬを
見ました。
「ねんねん、ころころ、ねんねしな。
なかんで、いい子だ、ねんねしな。」
子供を
失った
悲しみから、
気の
狂ったおきぬは、
昼となく、
夜となく、こうしてうたいながら、
村道を
歩いて
山の
方へとさまよっていました。
村にあられが
降り、みぞれが
降りました。そして、
山に
雪がくると、いろいろの
小鳥たちが、
里を
慕って
下りるように、
村の
娘たちもまた
都会を
慕ったのです。おかよは、こうして
彼女が十六のときに
奉公に
出ました。
旅に
立つ
前夜のこと、うれしいやら、
悲しいやらで、
胸がいっぱいになって、
戸の
外にすさぶあらしの
音をきいていると、ちょうどおきぬの
前をうたって
通る、
子守唄が、ちぎれちぎれに
耳へ
入ったのでした。なんという、いじらしいことかと、
彼女は
少女心にも
深く
感じたのでありました。
月日は、
足音をたてずにすぎてゆきました。
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