ある
日のこと、
古くから、この
病院へ
出入りして、
炊事婦や
看護婦と、
顔見知りという
老婆が、ふいに、お
竹のもとへやってきて、
前に
約束があるのだから、
少年の
付き
添いを
代わってもらいたいといいました。
「だしぬけで、お
気の
毒ですけれど、ほんとをいうと、あんたのような、
若い、きれいな
方は、こんなところにいるものでありませんよ。どんないいお
屋敷でも、また、キャバレーでも、おもしろくて、お
金になるところがいくらもあるではありませんか。
私のような、おいぼれは、いくところがないから、しかたなしにこんな
薬くさい、
陰気なところにいるけれど、
私だって、
若ければ、一
日だってがまんできやしない。」と、
老婆は、もっともらしくまくしたてました。
けれど、お
竹は、
少年がなんというだろうかと、その
方を
見ましたが、
老婆とは、かねて
知り
合いとみえて、だまっていたので、いまさらこの
病院に
未練のあるはずがなし、その
日のうちに、
暇をとって
出ることにしました。
かの
女は、
老婆が、
自分を
美しいといったのが、いつまでも
頭にあって、けっして、わるい
気がしませんでした。また
口入れ
屋へいくにしても、
髪形がきれいであれば、いっそう、いいところへ
世話をしてくれるにちがいないと
考えて、かねて、一
度入ってみたいと
思った、
美容院を
歩きながらさがしました。
たまたまあった、
美容院の
扉を
押して
内へ
入ると、
室内は、いい
香りがただよい、
花の
乱れるように、
美しい
娘たちが、あふれるばかり
集まっていました。かの
女は、
顔がぼうっとしたが、だんだん、おちつくと、ひとりひとりの、
美しい
顔を
見たのでありました。そして、
心ひそかに、
「さっきまでいた
病院と、こことのありさまは、なんというちがいだろう。」と、つぶやかずにいられませんでした。
そのとき、
季節はずれの、
大きな
黒いちょうが、どこから
迷いこんだものか、ガラス
窓につき
当たって、しきりと、
出口をさがしていました。
「かわいそうに、
花園と
思って、
香水や、
電気にだまされたんだわ。」
かの
女は、まだ
自分が、ちょうど、そのちょうであることに
気がつきませんでした。
思いのほか、
電髪に
手間どられて、
外へ
出たときは、いつしか
西の
方の
空が、わずかに
淡紅色をして、
日が
暮れていました。
平常、むだづかいをせずにためていた
金があるので、これから、
宿屋で
泊まろうと、すでに
顔なじみの
口入れ
屋へいこうと、その
心配はないけれど、さすがに
心細く
思いました。
病院で、
少年に
田舎の
話をしたら、
「ぼくは、そんなほたるが
飛んでいたり、
魚の
釣れる
川のあるところが
大好きだ。なぜ、おねえちゃんは、こんなやかましい
町の
中が
好きなの。」と、ふしぎそうにいったことなど、
思い
出されました。やがて、
大通りへ
出ようとすると、
路地の
片すみに、ちょうちんをつけた、
易者のいるのが、
目に
入りました。
そのちょうちんには、
手相、
身の
上判断と
書いてありました。かの
女は、それを
見ると、
同じ
道を
往来して、いくたびかためらったが、ついに、そのほうへと
近づきました。
手相を
見てくれるのは、まだ
若者だったが、
若者は、
一目で、かの
女を
田舎から
出て、まだ
間のないものだと
知りました。さながら、あひるが、
化粧したような
歩きつきや、ただ、
流行をまねさえすれば、
美しく
見えるとでも
思っている、けばけばしくて、あかぬけのしないようすが、
若者にはかえってあわれみをそそったのでした。
「
身の
上ご
相談ですか。
右のほうの
手をお
出しください。」
はずかしそうにして
出す、お
竹の
手を、
掌から、つまさきまで、
若者は、うす
暗い
提燈に
照らしながら、
虫眼鏡でこまかにながめていたが、やがて、
顔を
上げると、
「あなたは、
正直ですから、ひとにだまされやすい。よく、よく、
用心しなければなりません。」
お
竹は、
心の
中で、これと
同じようなことを
田舎で、
近所のおじいさんがいったが、あのときは、
正直だから、おまえは
人にかわいがられるといった。
都会では、どうして、
反対なのだろうか、と、
考えながら、その
後を
聞くと、
「
年まわりがわるいので、これから
先に
大損をなさることがある。お
金ばかりでなく、
身の
上にも、よくよく
気をつけなければなりませんぞ。いま、お
国のほうでは、あなたに
結婚の
話が
持ち
上がっています。だが、あなたは、あとではたいへんしあわせになられます。」
かの
女は、
顔を
赤くして、
幾たびも
頭を
下げて、その
前をはなれました。
若い
易者は、
彼の
先生から、いかなるばあいでも、
相手に
希望を
持たせることを
忘れてはならぬといましめられた、その
教えを
実行したまでです。
自分は、
田舎へ
帰れば、また、みんなから、やさしい、
正直な
子だといって、ほめられるだろうと、お
竹は
道を
歩きながら、
思いました。
ちょうど、このとき、一
時も
早くかの
女に
出発をすすめるように、どこかの
駅で
鳴らす
汽車の
汽笛の
音が、
青ざめた
夜空に、
遠くひびいたのでした。
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