単純な詩形を思う
小川未明
極めて単調子な、意味のシンプルな
子守唄が私の心を
魅し去ってしまう。そして、それをいつまで聞いていても、私は、この子守唄を聞くことに
飽きない。しかも、それを歌っているものが、無智の田舎娘であるなら、なおさら好い。
青い海のような空に、月が出て、
里川縁の柳の木の枝についている細かな葉が、風に
戦いで、うす闇の間から、
蝙蝠が飛び出て来る。まだ西の黒い森に、
紅い夕日が沈んでから間もない時分に、もはや
微かに星の光が見え初める。こんな時に、私は、よく、この子守唄を聞かされたものだ。もう、私は、その歌を覚えていない。その
節も忘れてしまった。
私は、このような子守唄を、幾年の後、しかも
賑やかな都の中で聞くなどとは思わなかった。然るに、たまたま、この子守唄を聞くと、不思議にも、幼児の時分に帰ったような、まだ、その赤い夕日を見て
鬼事をして遊んでいたのは昨日のことのような、純な、気持ちになってしまう。少なくも、今日の、この生活に苦しみ、あらゆる
煩悩のために身は捕虜となって
悶えている私の心を、兎に角、遠い、懐かしい、昔の北の故郷に帰らせてしまう。私はこの不思議な子守唄の魔力に驚かせられざるを得ない。
そして、この子守唄は、たとえ都の
少女が歌っていても、さまで不調和とは思わない。そればかりでなく、電車の響きが聞こえて来たとて、それらのものは、この唄のイリュージョンを決して破るだけの力がない。
かくまで、この子守唄が、
瞑想に
耽らせるとしたら、その子守唄には、最も力強い芸術的の魔力があることを
否む訳にはゆかない。私には、これは、まさしく人間の原始的感情を極めて単純な詩形に歌ったものは、子守唄であるからだと思われる。また、最も自然的に歌われたものは民謡であるからだと思われる。単にこれらは、いつまでも変わりない人情を、何の特別の技巧も施さずに感情のままに歌ったものである。
これらは、単に詩形に於いて、既に原始的であるばかりでなく、その声調に於いても、長い間の歴史を持っている。
吾等の祖先及びその時代の人が、
曾て子供を寝かし付ける時に、こういう自然の
声調をなした。また、森に於いて、野に於いて、
圃に於いて耕したり、
蒔いたり、刈ったりしている時にこういうような自然な節で歌って、そして、次の時代にも、この自然の人情から流れ出た歌の声調は受け
継がれている。そして、また、その次の時代にも、また、その声調は受け継がれて来た。極めて、この自然な、原始的な思想や、その声調は、何等の技巧を要せずに人間の心情に触れるものがあった。
しかしこれらは、その始め森の中に産まれた唄である。野や、谷に産まれた歌であることを忘れてはならない。私は、こう思うて来ると、都会に産まれた子守唄や俗謡がなくてはならないと考える。私は、これを
広重の絵画に認めた。しかし、この単調な、意味の極めてシンプルな芸術は決して、今の物質文明に対して積極的に反抗するような力を持たない。
何となれば、あまりにこれらは
厭世的である、あまりに詩的である。けれど、また、その力となるのも、知識の勝たない真情の発露によるからでもある。
私は、天才の歌うた詩には、よくこの単純な、また、単調な、リズムを捕らえ得る技
を認める。そして、これらの子守唄や俗謡の生命が長い如く、彼等の芸術はまた生命が長いのである。天才は、一言すれば、よく無智に帰って、自然を見ることを知っているからである。そして、人間の原始的の感情に触れる
術を知っているからである。ある意味に於いて、多くの知識を示すということは、詩歌の根本を、破壊することを知らなければならない。知識的に創作せられた詩歌や、またその他の芸術というものは、幾度も繰り返してこれを歌い且つ読むに堪えないものである。
たとえ単純な感情であっても、それにシンセリティが伴ったならば吾人は、その芸術の前に立って笑うことが出来ない、こういう芸術に対しては、知識は何の批評の権威も有せない場合が多い。今の詩壇には、あまりに、知識の勝った人が多いようだ。そして、それらの詩人は子供らしい感じということを理解もせなければ、また、感じもしないように思われる。誰しも都会が、都会詩人を産むことを否むものはない。また、不思議に感ずるものもなかろう。けれど、詩歌は、都会的であると、田園的であるとを問わず
根柢に原始的感情を有せない芸術は、人を魅するものでないことを確言し得るのである。
この意味に於いて、詩人は、また、いかなる時代に於いても物質文明に対し、唯物主義に対して反抗の声を
揚げた人々であった。
彼の、物質文明を謳歌し、帝国主義を叫んだ近代の詩人等は、ひとり、この版図に編せられないように思われるけれど、やはり彼等は、最も原始的な感情の自由と、祖先崇拝の思想を、鼓吹しているのでなかろうか。