小さな赤い花
小川未明
おそろしいがけの中ほどの岩かげに、とこなつの花がぱっちりと、かわいらしい瞳のように咲きはじめました。
花は、はじめてあたりを見て驚いたのであります。なぜなら、目の前には、大海原が開けていて、すぐはるか下には、波が、打ち寄せて、白く砕けていたからであります。
「なんというおそろしいところだ。どうしてこんなところに生まれてきたろう。」と、小さな赤い花は、自分の運命をのろいました。それはちょうど、寒い雪の降る国に生まれたものが、暖かな、いつも春のような気候の国に生まれなかったことを悔い、貧乏な家に生まれたものが、金持ちの家に生まれて出なかったことをのろうようなものであります。
けれど、それはしかたがないことでありました。とこなつの花は、そこに生い立たなければならぬのでした。花は、ものこそたがいにいい交わしはしなかったが、自分の周囲にも、ほかの高い木や、低い木や、またいろいろな草が、やはり自分たちの運命に甘んじて黙っているのを見ますと、いつしか、自分もあきらめなければならぬことを知ったのであります。
天気のいい日には、海の上が鏡のように光りました。そして、そこは、がけの南に面していまして、日がよく当たりましたから、花は物憂いのどかな日を送ることができましたが、なにしろ、がけの中ほどで、ことにほかには美しい花も咲いていませんでしたから、みつばちもやってこず、ちょうもたずねてきてくれませんので、寂しくてならなかったのであります。
花は、海の方から吹いてくる風に、そのうすい花弁を震わせながら、自分の身の不幸を悲しんでいました。
ある日のことであります。一ぴきの羽の美しいこちょうが、ひらひらと、どうしたことかその辺へ飛んできました。そして、そこに、赤いとこなつの花の咲いているのを見つけると、さっそく、花の上に飛んできました。
「まあ、珍しく、かわいらしい花が、こんなところに咲いていること。」と、ちょうはいいました。
これを聞きつけた、とこなつの花は、ちょうを見上げて、
「よくきてくださいました。私は、毎日ここで寂しい日を送っていました。そして明け暮れ、あなたや、みつばちのおたずねくださるのを、どんなにか待っていましたでありましょう。けれど、今日まで、だれも、たずねてはくれませんでした。ほんとうに、ようこそきてくださいました。」と、花はちょうに話しかけました。
すると、ちょうは、小さな頭をかしげながら、
「じつは、私は、こんなところに、あなたのような美しい花が咲いているとは知らなかったのです。今日、路を迷って、偶然ここにきまして、あなたを知ったようなわけです。それにしても、なんと、あなたは、やさしく、美しい姿でしょう。」と、こちょうはいいました。
「あなたが、路をお迷いなされたことは、私にとってこのうえないしあわせでした。私は、まだ世の中のことを知りません。どうか、私たち仲間が、どんな生活をしているか、私に聞かせてください。」と、花は、ちょうに頼んだのであります。
可憐なとこなつの花は、ほかの花たちの生活が知りたかったのです。そして、自分の運命を比較してみたいと思ったのです。
花にこういって聞かれたので、ちょうは答えました。
「そういわれれば、わたしは正直に答えますが、あなたは、ほんとうに不しあわせな方です。あなたがたの仲間は、広々とした野原に、自由にはびこって、いまごろは、赤・青・黄・紫・白というふうに、いろいろな花が咲き誇って、朝から晩まで、ちょうや、はちがその上を飛びまわって、それはどんなににぎやかなことでありましょう。」といいました。
「まあ。」といって、とこなつの花は、ため息をもらしました。
やがて、ちょうは別れを告げました。その後で、花はいつまでも深く悲しみに沈んでいました。
あくる日も、夜が明けると、花は、うすい花弁を海の方から吹いてくる風にそよがせながら憂えていました。
そのとき一羽の名も知らない小鳥が、そばの木立にきてとまって、花を見おろしながら、
「おまえがいちばんしあわせ者だ。そんなに悲しむものじゃない。」と、花にいって、どこへか飛び去ってしまったのです。
とこなつの花は、小鳥のいったことが、ただ自分を哀れに思ってなぐさめてくれる言葉だとしか思いませんでした。その後も、花は、さびしい日を送ってきました。
日の光は、だんだん南の方へ遠ざかりました。そして、海の上から吹いてくる風が寒くなりました。しかし、そこは、うしろの北には山をしょっていました。ほかから見れば、ずっと暖かでありました。それですから、とこなつの花の葉は、いつも青々としていました。
ある朝のことであります。太陽が海から上がってまだ間もない時分でありました。いつかのこちょうが、昔の面影もなく、みじめなみすぼらしいふうをして、しょんぼりとたずねてきました。両方の羽は、暴風にあったとみえて疲れていました。
「どうなさったのですか?」と、とこなつの花は、びっくりしてたずねました。
「もういわんでください。昨夜の暴風で、花という花は、すっかりしぼんでしまい、私たちはみんな死んだり傷ついたりしました。私は、やっとここまで逃げてきました。どうぞ、しばらく休まさせてください。」と、ちょうは答えました。
その晩、この南の海に面したがけにも霜が降りたほど、寒かったのです。あくる朝、花は目をさましますと、美しかったこちょうは、傷ついたまま冷たくなって葉の上に気絶をしていたのです。花はもどかしがりながら、早く太陽が照らすのを待っていました。そのうちに、風が吹くと、ちょうの体は、深いがけの下に転がり落ちてしまいました。
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