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稚子ヶ淵(1)
日期:2022-11-23 23:58  点击:309
 

稚子ヶ淵

小川未明


もう春もいつしか過ぎて夏の初めとなって、木々の青葉がそよそよと吹く風に揺れて、何とのう恍惚うっとりとする日である。人里を離れて独りで柴を刈っていると、二郎は体中汗ばんで来た。少し休もうと思って、林から脱け出て四辺あたりを見廻すとすぐ目の下に大きな池がある。二郎は何の気なしにその池のほとりへ出た。
すると青々とした水のおもてがぎらぎらする日の光りにうつっ一本ひともとの大きな合歓ねむの木が池の上に垂れかかっていた。
「この池の名は何というだろう?」
二郎はその合歓の木蔭に来て鎌や、なたほうり出して、芝生の上に横になって何を考うるともなくじっと池の上を見下している。爽やかな風がそよそよと池を渡って合歓の木の葉が揺れると寂然ひっそりとしている池の彼岸あなた鶺鴒せきれいが鳴いている。うす緑色の木の葉も見えれば、真蒼まっさお常盤木ときわぎの色も見えている……しかし人影は見えなくて静かな初夏の真昼である。
二郎は種々いろいろな空想を浮べていた……合歓の木の下にしげっている蔦葛つたかずらなかで、虫が鳴いている。二郎は虫の音に暫時しばしききとれていたが、思わず立上って蔦葛の裡をそっと覗き込んで見たが、姿は見えなかった。またもとの芝生の上によこたわって池の方を見ていると又虫の音が聞こえてくる……し捕まえたら、の竹籠の中へ入れて、籠の中へ草を入れて、霧を吹いて、庭の南天の枝に掛けて置こう。そうするときっとこのように好い声を出して泣くだろう……。されど身動きもせんで、熟とひとみを青葉の上に落して、滅入るような日の光りを見つめていた。
すると池の上で先刻さきがたの鶺鴒が一声いて向うの岸に飛んで行くのである。二郎は、その鶺鴒の下りた林の方に目を移して又考え込んでしまう。
「ああ、姉さんは死んでしまったのか。」
と、この時にわかに独言ひとりごとのように溜息をいて目から涙がこぼれる。しかしれも見ているのでないから、落つるままにしておくと、涙が頬を伝うてぽたぽたと膝の上に落ちた。
この時、何を思い立ったか、二郎は仰いで合歓の木を見上げたのである。
「大きな合歓の木だな、幾百年経ったろう……早く花が咲けば好いが、花が咲く時分になると村のお祭が何時いつでもあるんだ……しかし姉さんがいないから、寂しくてならん……盆になると姉さんは踊ったっけ……姉さんを村の者は美しいと言う。その噂を聞くと姉さんはいつも赤い顔をしたっけ……。ああ、つまらんつまらん姉さんは死んでしまったんだ。」
思い出すともなく、いつしか姉のことを思い出して二郎は泣いたり、又何か思うて笑ったりしているのである。
白いすき透るような雲が、ふわふわと高く飛んで池の上を渡ると影が水の上に映って、赫々かっかくと照っていた日の光りが少し蔭ると、天地がほんのりと暗くなって、何処いずくともなく冷たい、かんばしい風が吹いて来る。何だか寂しいような、うら悲しいような気持になった。すると又不思議なことには、それはそれは……今迄聞いたことのない、美妙びみょうの音楽の音が響いて来て、初めは何でも遠くの方に聞こえたと思うと漸々だんだんかく、しまいには何でも池の中から湧き出て来るように思われた。
して時々は姉の声も交って、歌うている歌の声が聞こえて来るかと思うと、つい眠くなって二郎は其処そこの芝生に倒れたまま、好い気持でうとうとと眠ってしまった。
さだめし二郎は面白い夢を見ていたのであろう。冷たい風が顔をめるように身に浸みて、ふと目を醒まして見ると驚いた。
星の光りがちらちらと見え、全く日は暮れていたのである。池の面は黒ずんで、合歓に渡る風が一きわ高く、静かな山中やまなかの夜は物凄い程に寂然ひっそりとしている。……耳を澄ますと虫の音が聞こえて来る。くさむらの中でかさかさとするのは何かの小鳥が巣をたずねているのであろう。手で地上を探って鎌や、鉈を腰に挟んで、一歩一歩池の畔に出た時に心覚えのあるだらだら坂を登って、やっと昼前に柴を刈っていた場所まで来て見たが、それからきは一向いっこう覚えがない。たとえ覚えはあったにしても、夜のことで、とても小道を探し出すことは出来なかった。
帰ろうと思っても、帰ることが出来ず、家では親達が心配しているだろうと思うと一刻も茫然ぼんやりしてはいられず、だんだん心細くなって来て泣き出した。……ややしばらくして泣き止んで切り捨ててあった、青々とした柴の上に腰を下して、空の星をさびしげに眺めていた。
すると何処ともなく天外てんがいになつかしい声が聞えて、さわさわと木の葉が揺れるかと思うと、日頃恋い慕っていた姉が、繁みのなかから出てきたのである。
「姉さん!」
と、余りの嬉しさに一声叫んで飛び付いた。……しかし死んだ人がどうして来たろうと思うと空怖ろしいような、物凄い気持がしたけれど、見れば見る程まさしく自分の姉であり、而して今自分の心細く思っている矢先であったから、そんなことを考えるひまがなかった。
「姉さん、姉さん! 僕は嬉しかった。」
姉は物も言わんで、微笑ほほえんで、のうるんだなさけの籠るひとみで、二郎を打眺うちながめている。二郎は姉のたもとにしかとすがり付いたまま、もうもう決して決して、放さないと決心したのである。
「さあ、二郎ちゃん行こう。わたしが道を案内してあげるから、いつかは、日常いつも妾の帰りが遅いと迎いに来ておくれだったのね、今日は妾がみちを教えて上げよう。」
二郎はその言葉を聞き、何となく悲しく感じて、姉に手をひかれて林の裡から出た。……
二郎は心のうちで、どうして姉が斯様こんな山道をくわしくしっていようか……斯様なに暗いのにどうして斯様なにみちが分るだろうかといぶかしがりながらるいていた。しかし姉はいつになく、沈んでいるように見えたので、自分も口をつぐんでなるたけ話をせまいものと黙って歩るいていたのである……。やがて大きな沢や、幾つかのたにを越えて、細い細い山途に差しかかると、山のを離れて月の光りが渓川の水に宿やどっている。二人は黙ったまんまで途を歩いている……

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