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稚子ヶ淵(2)
日期:2022-11-23 23:58  点击:301
 
この時姉は始めておととを顧みて、さも名残惜そうにして見つめたのである。弟も月の光りに始めて青白い姉の顔をつくづくと眺めた。
「この道を真直に行くと、きにの大きな原に出る、すると向うに家が見える。泣かんで早くお帰り! ちょうど月も出たから……妾は此処ここで見送っていますよ。」
二郎の声はもう涙にむせんで、
「じゃ姉さんは、やっぱり帰らないの……。僕は姉さんと一しょに行きたいから連れて行って頂戴! 僕は独りで帰るのは厭だ。」
姉は流石さすが躊躇ためらっていたように見えた。さも哀しげに渓間たにまの月影を見下して、果ては二人してさめざめと泣くのである。さき弟の胸には張り裂けんばかりにかなしみの充ちて、さも心配らしう姉の顔を眺めている。
「そんなら、また明日彼の池の畔へ来ておくれ! きっと妾が待っていますから、而して楽しく話をしましょうね。」
「じゃ姉さんは明日も、来てくれるなら僕はきっと彼の池の畔へ行って待っていよう。」
「ああ、ほんとうに妾が待っててよ。」
「うんにゃ、僕の方が先に行って待っているんだ。」
「ほほほ可笑おかしいことね。」
と、さびしげに姉は打笑うちえんだ。
「また明日にしてよ、今日はこれでお帰りよ。」
二郎は首肯うなずいたまま、泣く泣く坂を下りて行ってしまう。姉は爪先だてて見送っている。二人は幾度も幾度も見返えりつ、見送りつ、月の光にほんのりと姿は霞むが如く見えずなるまでも……
しかし二郎の両親ふたおやはいつになく我が子の遅く帰ったのに心配して、種々いろいろと二郎に仔細を問うた。始めのうちこそは何とも言わなかったけれど、問い詰められて隠しきれず、つい一部始終を物語ったのである。而してどうか姉を家へ連れて来たいと両親に請願ねだると両親は驚いて、顔の色を変えて、
「二郎や、それは魔物がお前を見込んでいるのだ。もうもう決してその池のはたへ行くことはならんぞ。」
と、堅く言い聞かせた。
その翌日のこと、二郎はいつもの山へ出掛けはしたが、偶然ふと昨日、両親から言われたことを思い出して、池の畔りへは行かなかったのである。
やがてその日の昼頃となって、もう大分仕事に疲れてきて、休もうかと思っていると、遠くで自分の名を呼ぶ声が聞こえる。二郎は握っていた青々とした小枝を地上ちびたに落して、耳を傾けていると又呼ぶ声が聞こえるのである。確かに姉の声に相違ちがいがない。
二郎は空怖しくなって、林の中にすくんでいると、その声は漸々と近づく。……突如として自分の前に立ちふさがったものは、顔色の青晒あおざめている女の姿! ぎょっとして見上げると頭髪かみのけは顔に乱れていて、物もいわんで、自分を捕えたままひややかにけらけらと笑い、またさも嬉しそうに、我が顔を覗き込んだ。
「行こう行こう、二郎ちゃん! 妾は先刻さっきから大分待っていてよ。」
と無理にその場を押し立てて、何処いずくともなく連れ去ってしまった。
……二郎は何処どこへ行ったであろう、その晩はとうとう帰って来なかった。両親は非常に心配して、今日山へやらなければよかったと後悔をしていると、日暮方から鳴出なりだした雷は益々ますますすさまじくなって、一天いってん墨を流したようで、篠突しのつく大雨、ぴかりぴかりといなずまが目のくらむばかり障子にうつって、そのたびに天地もくつがえるようにいかずちが鳴り渡る、その夜は両親は心配に泣き明した。明くる朝を待って池の畔へ行って見ると、可哀そうに二郎の被っていた菅笠すげがさが池の水に漂うていた。父親は其処そこに泣き倒れた。而して一先ひとまず村へ帰って人々の助けを借りて、再び池の中を捜索したけれど、その苦心のいもなく、とうとう死骸を見付ることが出来なかった。
其処で村の人達は相会あいかいして、これには何か不思議な仔細があるのであろうと議結ぎけつをして小祠やしろを大きな合歓の木の下に建立こんりつして、どうかこの村に何事のたたりもないように、どうか旱魃かんばつの時にはこの村の田畑に水の枯れぬように、どうか小供の水難を救われるようにと祈祷きとうをして、さてこの池をば稚子ちごふち明神みょうじんと名づけたのである。

毎年初夏の頃になると、薄紅うすくれない色の合歓の花が咲く。その頃になるとこのやしろの祭があるので、村祭同様に村中の者が家業を休む。その時にはこのさびしい山中にも太鼓の音がひびき、笛の音も冴える、而して春、夏、秋、冬、この池の水は青々として黒ずんで、静かな山や、林や、もりの影を映している。青葉の夏も、紅葉の秋も、いつもなつかしい慕わしい眺めである。
 

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