この時姉は始めて
弟を顧みて、さも名残惜そうにして見つめたのである。弟も月の光りに始めて青白い姉の顔をつくづくと眺めた。
「この道を真直に行くと、直きに彼の大きな原に出る、すると向うに家が見える。泣かんで早くお帰り! ちょうど月も出たから……妾は此処で見送っていますよ。」
二郎の声はもう涙に
咽んで、
「じゃ姉さんは、やっぱり帰らないの……。僕は姉さんと一しょに行きたいから連れて行って頂戴! 僕は独りで帰るのは厭だ。」
姉は
流石に
躊躇ていたように見えた。さも哀しげに
渓間の月影を見下して、果ては二人してさめざめと泣くのである。
小さき弟の胸には張り裂けんばかりに
悲みの充ちて、さも心配らしう姉の顔を眺めている。
「そんなら、また明日彼の池の畔へ来ておくれ! きっと妾が待っていますから、而して楽しく話をしましょうね。」
「じゃ姉さんは明日も、来てくれるなら僕はきっと彼の池の畔へ行って待っていよう。」
「ああ、ほんとうに妾が待っててよ。」
「うんにゃ、僕の方が先に行って待っているんだ。」
「ほほほ
可笑しいことね。」
と、さびしげに姉は
打笑んだ。
「また明日にしてよ、今日はこれでお帰りよ。」
二郎は
首肯たまま、泣く泣く坂を下りて行ってしまう。姉は爪先だてて見送っている。二人は幾度も幾度も見返えりつ、見送りつ、月の光にほんのりと姿は霞むが如く見えずなるまでも……
しかし二郎の
両親はいつになく我が子の遅く帰ったのに心配して、
種々と二郎に仔細を問うた。始めのうちこそは何とも言わなかったけれど、問い詰められて隠しきれず、つい一部始終を物語ったのである。而してどうか姉を家へ連れて来たいと両親に
請願と両親は驚いて、顔の色を変えて、
「二郎や、それは魔物がお前を見込んでいるのだ。もうもう決してその池の畔へ行くことはならんぞ。」
と、堅く言い聞かせた。
その翌日のこと、二郎はいつもの山へ出掛けはしたが、
偶然昨日、両親から言われたことを思い出して、池の畔りへは行かなかったのである。
やがてその日の昼頃となって、もう大分仕事に疲れてきて、休もうかと思っていると、遠くで自分の名を呼ぶ声が聞こえる。二郎は握っていた青々とした小枝を
地上に落して、耳を傾けていると又呼ぶ声が聞こえるのである。確かに姉の声に
相違がない。
二郎は空怖しくなって、林の中に
慄んでいると、その声は漸々と近づく。……突如として自分の前に立ち
塞がったものは、顔色の
青晒めている女の姿! ぎょっとして見上げると
頭髪は顔に乱れていて、物も
言んで、自分を捕えたまま
冷かにけらけらと笑い、またさも嬉しそうに、我が顔を覗き込んだ。
「行こう行こう、二郎ちゃん! 妾は
先刻から大分待っていてよ。」
と無理にその場を押し立てて、
何処ともなく連れ去ってしまった。
……二郎は
何処へ行ったであろう、その晩はとうとう帰って来なかった。両親は非常に心配して、今日山へやらなければよかったと後悔をしていると、日暮方から
鳴出した雷は
益々すさまじくなって、
一天墨を流したようで、
篠突く大雨、ぴかりぴかりと
電が目の
眩むばかり障子に
映って、その
毎に天地も
覆るように
雷が鳴り渡る、その夜は両親は心配に泣き明した。明くる朝を待って池の畔へ行って見ると、可哀そうに二郎の被っていた
菅笠が池の水に漂うていた。父親は
其処に泣き倒れた。而して
一先村へ帰って人々の助けを借りて、再び池の中を捜索したけれど、その苦心の
効いもなく、とうとう死骸を見付ることが出来なかった。
其処で村の人達は
相会して、これには何か不思議な仔細があるのであろうと
議結をして
小祠を大きな合歓の木の下に
建立して、どうかこの村に何事の
祟もないように、どうか
旱魃の時にはこの村の田畑に水の枯れぬように、どうか小供の水難を救われるようにと
祈祷をして、さてこの池をば
稚子が
淵の
明神と名づけたのである。
毎年初夏の頃になると、
薄紅色の合歓の花が咲く。その頃になるとこの
祠の祭があるので、村祭同様に村中の者が家業を休む。その時にはこのさびしい山中にも太鼓の音がひびき、笛の音も冴える、而して春、夏、秋、冬、この池の水は青々として黒ずんで、静かな山や、林や、
杜の影を映している。青葉の夏も、紅葉の秋も、いつもなつかしい慕わしい眺めである。
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