中学へ上がった日
小川未明
毎日いっしょに勉強をしたり、また遊んだりしたお友だちと別れる日がきました。今日は卒業式であります。式の後で、男の生徒たちは、笑ったり、お菓子を食べたり、お茶を飲んだりしましたけれど、女の生徒たちは、さすがに悲しみが胸につかえるとみえて、だれも笑ったり、おせんべいを食べたりするものはありませんでした。
哲夫は、校長先生のおっしゃったことが、いつまでも耳に残っていました。
「日本の非常時のことは、もうみんなよくわかっていると思います。これから世の中へ出て働くものも、また上の学校へいって学ぶものも、第一に体を大事にして、いかなる試練にも、打ち勝つ覚悟がなければならない。そして、お国のため、世の中のために働く、りっぱな人間となってください。これが、私からみなさんに申しあげる最後の言葉です。」
いよいよ卒業した生徒たちが、お免状を持って家へ帰るときでした。校長先生は、わざわざ廊下へいすを持ち出して、一人、一人の顔をじっとごらんになりました。そのとき、眼鏡の底の先生の目は、涙でうるんでいました。男の生徒の中には、その前を平気で通ったものもあるが、女の生徒たちは、いずれもハンカチで目を押さえて過ぎました。
哲夫は、学校の門を出ると、やはり悲しみがこみ上げてきました。もう明日からは、この門を通らないであろう……と、幾たびとなく振り向いて、あちらへ道を曲がったのです。
「宮田くん。」と、彼は、前へいく少年に声をかけました。少年は、立ち止まって、哲夫を見返ると、にっこり笑いました。
「宮田くんは、どこへ入ったの?」と、哲夫はききました。少年は、すこし顔を赤くして、
「僕は、もう学校をよして、家のおてつだいをするよ。」と、いいました。
「そうかい。」と、哲夫は、うなずきました。
二学期のときでした。宮田がいったことを思い出したのです。
「僕、こんどの試験に甲を三つとれば、お母さんが、自転車を買ってくれるといったよ。」
しかし、その後、自転車を買ってもらったという話をきかなかったから、甲が三つとれなかったのだろうと思いました。けれど、宮田くんのお母さんは、やさしい、いいお母さんだという感じがしたのでした。宮田くんの家は八百屋です。
「先生は、勉強をしても、働いても、その精神に変わりがなければ、お国につくすと同じだとおっしゃったから、大いに働きたまえ。」と、哲夫は、いいました。
「君は、どこへ入ったのだい。」と、宮田は、ききました。
「僕は、中学へ入ったけれど、ついていけるか心配なんだよ。」
「君は、だいじょうぶさ。」
「それに、君は、体が弱いんだものね。」と、哲夫は、なぐさめました。
「働けば、体が達者になるって、お母さんがいったよ。」
二人は、途中で、右と左に別れました。哲夫は、また中学の入学試験にきていた不幸な少年を思い出したのです。当日、哲夫は、お母さんにつれられていったが、控え室に松葉づえをついた少年が、姉さんにつれられていっていました。ほかの少年たちが元気でいるのに、その少年は、青白い顔をして、弱々しそうでした。そのうちに、ベルが鳴って、試験場へ入るときがきました。「おちついて、しっかりおやり。」とか、「よく問題を見て、あわててはいけません。」とか、いう声が、そこここできかれました。哲夫は、お母さんを残していきかけると、松葉づえの少年もいっしょにいきかけました。
「だいじょうぶかい、おまえは、できなくてもいいんだよ。」と、姉さんが、少年の耳に口をつけていっていました。これをきいたとき、哲夫は胸が熱くなりました。試験場へ入ると、すべてのことを忘れてしまいました。算術と読み方の試験をすまして、哲夫は、ふたたび控え室へもどると、そこには、お母さんが、じっとして腰をかけて待っていられました。
「どうだったい。」と、お母さんは、我が子の顔を見ると、すぐおっしゃいました。
「やさしいんだよ。」と、哲夫は、こともなげにいって、そばを見ると、少年の姉さんが、うつむいて、考え顔をしていました。松葉づえの少年が、まだ試験場から出なかったのです。入学の日には、哲夫は、ひとりで学校へいきました。そして、控え室に入ってあたりを見まわしました。
「松葉づえの少年は、及第したろうか。」と、思ったからです。どうしたのか、その姿は見えませんでした。このとき、思いがけない事件が起こったのです。すぐ自分のそばに生意気な少年が、三、四人いました。
「きょう帰りに、どこかへいこうよ。」
「僕、まだ、本を買わないんだぜ。」
そのとき、カチンという音がしました。
「あっ、拾銭どっかへやっちゃった。」
彼らは、さがしたけれどなかったようです。――哲夫が、しばらくして、くつを上げると、下に白銅がころがっていました。
「ここにあった。」と、哲夫は、拾って、落とした少年に渡しました。
「ずるいや、ごまかそうとして。」
「だれが。」と、哲夫は、かっとなりました。
「おい、けんかする気か。」
「なに。」と、哲夫は、少年の横顔をなぐりました。たちまち、控え室で組み打ちがはじまったのです。
「よせ、おまえがわるいのだ。」と、仲間が少年を引き離そうとしました。片方から、どこかのおじさんが、
「二人とも、日本の子供じゃないか。」と、いいました。哲夫は、はっとして、手を放したが、目から、くやし涙がながれてきました。
「そうだ、僕はもう中学生なんだ。」と、肩を上げて突っ立ったまま、彼はさびしく微笑んだのであります。
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