ちょうは、そのやさしい
音色のする
方へと、
音をたどって
降りてゆきました。そこは、ある
大きな
家の
裏のところであって、いい
音色は、へやの
中からもれているのです。ちょうは、なにに
止まったらいいかと、しばらく、この
庭を
見まわしました。その
庭は
広かったとはいえ、もっともっと
広い
野原から
飛んできたちょうには、
広いとは
感じられなかったのです。
ちょうは、
幾つかの
鉢に、いろいろの
花の
咲いているのを
見ました。これは、どれも、いままで
見たことのないような、
美しい
花ばかりであります。ちょうは、いつか
羽の
青いこちょうの
物語ったことなどを
思い
出しました。なかにも、ちょうは、
黒い
鉢に
植わった、
真紅なばらの
花を
見たときには、ほんとうに、びっくりしてしまいました。それで、たちまち、なんともいえない
香気に
恍惚となってしまって、ちょうは、あとさきの
考えもなく、その
真紅な
花弁に
吸いつけられたように、その
上に
降りて
止まったのです。
こんなに
美しい
花が、この
世の
中にあるだろうかと、ちょうは
思いました。これこそ、
私が
憧れていた
花だと、ちょうは
思いました。
「まあ、なんというきれいなこちょうさんでしょう。わたしは、まだこんなに
美しいちょうは
見たことがなかった。さあ、わたしのみつを
思うぞんぶんに
吸ってください。」と、
真紅のばらはいいました。
遠く、
町に
憧れて
飛んできたちょうは、この
花に
接吻しました。それは、ほんのつかのまであったのです。
「あすこに、
子供があなたをじっと
見ていますよ。きっと、ここにやってきて、あなたを
捕らえますよ。そして、
針であなたの
体を
刺してしまいますよ。はやく、お
逃げなさい。そして、また、
忘れずにきてください。わたしは
待っています。」と、ばらの
花はいいました。
このとき、
大きな
袋のようなものが
空を
横ぎりました。もし、もうすこし
早くちょうが、その
花の
上を
飛び
去らなかったら、きっと、
捕らえられてしまったのです。しかし、ちょうは、ただ、はげしい
風のあおりを
身に
感じただけで、
無事でありました。
ちょうは、その
夜、
近くの
草原に
休みました。そして、また、
明くる
日、この
庭にいってみたのです。けれど、
哀れなちょうは、ばらの
花に
近寄ることができませんでした。
人間が、その
庭にいたからです。
三日めの
晩方、ちょうは、
今日こそは、
花に
近寄って、いろいろの
思いを
語ろうと
思ったのであります。
天気の
変わる
前兆か、
西の
夕焼けは、
気味の
悪いほど、
猛り
狂う
炎のように
渦巻いて
紅くなりました。
ちょうが、
大きな
羽をはばたいて、
庭さきに
降りようとした
刹那、
真紅なばらの
花は、もう
寿命がつきたとみえて、
音もなく、ほろりほろりと、
金色を
帯びた
夕日の
光の
中に
砕けて
散るところでありました。
これを
見たちょうは、どんなにうらめしく
思ったでしょう。そして、またこの
花と
語るのはいつであろうとなげきました。ちょうは
気も
狂いそうでありました。
無念と
残念とで、もう
生きている
心地はなかったのです。
自分の
体は、どうなってもいいというように、ちょうは、
絶望のあまり、
深い
考えはなしに、
空高く、
高く、どこまでも
高く
舞い
上がりました。ちょうは、
下界の
有り
様を、もはやなにも
見たいと
思いませんでした。
すると、
空には、
怖ろしい、
烈しい
風が
吹いていました。ちょうの
体は、
急流にさらわれた
木の
葉のように、あっと、
思うまもなく、
遠く、
遠く、
吹き
飛ばされてしまいました。
どんな
強い
風に
飛ばされた
木の
葉も、一
度は
落ちるように、ちょうは
冷たい
土の
上に
落とされました。そして、
気がついたときに、すさまじい
音が、
真っ
暗な
中から、
起こってきこえていたのです。そこは、
海辺でありました。
ちょうは、
湿った
砂の
上にしがみついて、ふるえていました。
夜が
明けると、
自分の
美しかった
羽は
破れていて、そして、
前には
青い
青い
海が、うねり、うねっているのが
見られたのです。
日の
光を
浴びて、ちょうは、いくらか
元気が
出てきました。そして、どこかの
辺りに、
花が
咲いてはいないかと、ひらひらと
舞い
上がったのでした。けれど、
風が
強くて、ややもすると
傷ついた
羽が、そのうえにも
破れてしまいそうでした。やっと、
砂の
丘に
黄色な
花の
咲いているのを
見つけて、その
花の
上にとまりました。
黄色な
花は、ちょうど
星のように
咲いていました。そして、
風に
吹かれて、
頭を
地につけていました。あまりみつばちもいなければ、また、ほかのちょうの
姿も
見えませんでした。
花は
黙っています。
海の
上では
鳥が
鳴いていました。なんとなく、
悲壮な
景色であったのです。
ちょうは、じっとして、
終日、その
花の
上に
止まっていました。もとの
野原へ
帰ろうと
思っても、いまは
方角すらわからないばかりか、
遠くて、
傷ついた
身には、それすらできないことでありました。
たちまち、
海の
上が
真紅に
燃えました。
夕日が
沈むのです。この
光景を
見ると、ちょうは、ふたたびばらの
姿を
思い
出しました。もう
永久に、あの
姿が
見られないと
思うと、ちょうは、また
物狂おしく、
昨日のように、
空高く
舞い
上がったのです。
美しい
花弁のように
傷ついたちょうの
姿は、
夕日に
輝きました。
強い
風は、
無残にちょうを
海の
上に
吹きつけました。そして、たちまち
怒涛は、ちょうをのんでしまったのです。
――一九二二・三作――
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