千代紙の春
小川未明
町はずれの、ある橋のそばで、一人のおじいさんが、こいを売っていました。おじいさんは、今朝そのこいを問屋から請けてきたのでした。そして、長い間、ここに店を出して、通る人々に向かって、
「さあ、こいを買ってください。まけておきますから。」と、人の顔を見ながらいっていました。
人たちの中では、立ち止まって見てゆくものもあれば、知らぬ顔をして、さっさといってしまうものもありました。しかし、おじいさんは、根気よく同じことをいっていました。
そうするうちに、「これは珍しいこいだ。」といって、買ってゆくものもありました。そして、暮れ方までには、小さなこいは、たいてい売りつくしてしまいました。けれど、いちばん大きなこいは売れずに、盤台の中に残っていました。
おじいさんは、大きなのが売れないので、気が気でありませんでした。どうかして、それをはやく、あたりが暗くならないうちに売ってしまいたいと、焦っていました。
「さあ、大きなこいをまけておきますから、買ってください。」と、しきりにおじいさんはわめいていました。
みんな通る人は、そのこいに目をつけてゆきました。
「大きなこいだな。」といってゆくものもありました。
そのはずであります。こいは、幾年か大きな池に、またあるときは河の中にすんでいたのです。こいは、河の水音を聞くにつけて、あの早瀬の淵をなつかしく思いました。また、木々の影に映る、鏡のような青々とした、池の故郷を恋しく思いました。しかし、盤台の中に捕らえられていては、もはや、どうすることもできなかったのです。そのうえに、もう捕らえられてから幾日もたって、あちらこちらと持ち運ばれています間に、すっかり体が弱ってしまって、まったく、昔のような元気がなかったのであります。
大きなこいは、自分の子供のことを思いました。また友だちのことを思いました。そして、どうかして、もう一度自分の子供や、友だちにめぐりあいたいと思いました。
「さあ、こいを買っていってください。もう大きいのが一ぴきになりました。うんとまけておきますから、買っていってください。」
おじいさんは、その前を通る人たちに向かって、声をからしていっていました。晩方の道を急ぐ人たちは、ちょっと見たばかりで、
「このこいは値もいいにちがいない。」と、心の中で思って、さっさといってしまうものばかりでした。
大きなこいは、白い腹を出して、盤台の中で横になっていました。こいは、よく肥えていました。けれど、もはや水すら十分に飲むこともできなかったので、この後、そんなに長いこと命が保たれようとは考えられませんでした。
春先であったから、河水は、なみなみとして流れていました。その水は、山から流れてくるのでした。山には、雪が解けて、谷という谷からは、水があふれ出て、みんな河の中に注いだのです。こんなときには、池にも水がいっぱいになります。そして、天気のいい暖かな日には、町から、村から、人々が釣りをしに池や河へ出かけるのも、もう間近なころでありました。
あわれなこいは、そんなことを空想していました。
分享到: