こいは、このときだと
思ったのです。いま
自分が
逃げなければ
数分間のうちに
殺されてしまうと
思いましたから、
力まかせに、おじいさんの
腕を
尾でたたきつけて、おじいさんがびっくりして、
手を
放したすきに
河の
中へ
一飛びに、
飛び
込んでしまったのです。
「あ、こいが
逃げた!」
と、
通りすがりの
人々は
叫んで、
黒くその
前に
集まりました。おじいさんも、おばあさんも、びっくりしましたが、
中にもおじいさんは、この
大きなこいを
逃がしてしまったので
大損をしなければなりませんでした。
孫たちに
夕飯のおかずを
買ってゆくどころでありませんでした。
「
尾をつかんで、
上げてみせろなどといわなけりゃ、こいが
逃げてしまうことはなかったのです。どうか、このこいのお
金をください。」と、おじいさんは、おばあさんにいいました。
おばあさんは、
甲高な
調子になって、
「なんで、
受け
取りもしないのに、
代金を
払うわけがあるかい。かわいい
孫の
口に
入らないものを、
私は、お
金なんか
払わないよ。」と、
争っていました。
このとき、
集まった
人々の
中から、
頭髪を
長くした
易者のような
男が
前に
出てきました。
「おばあさん、こんなめでたいことはありません。
死んだと
思ったこいが
跳ねて
河の
中へ
躍り
込むなんて、ほんとうにめでたいことです。きっとお
孫さんのご
病気は、
明日からなおりますよ。
孫のかわいいのは、だれも
同じことです。このおじいさんにもかわいい
孫が
家に
待っているのだから、おばあさん、こいの
代金をはらっておやりなさい。」と、その
髪の
長い
男はいいました。おばあさんは、こいの
代金なんど
払うものかと
思っていましたが、いまこの
男のいうことを
聞くと、なるほど、もっともだと
思いました。そこで、おばあさんは、しなびた
手で
財布の
中から
銭をとり
出して、おじいさんに
払ってやりました。
おじいさんは、おばあさんが、こいの
代金を
払ってくれるとにこにこしました。そして、ふところから
美しい
千代紙を
出しました。
「おばあさん、この
千代紙は、
私が
孫に
土産に
持っていってやろうと
思いましたが、なにも
今日に
限ったことでない。どうか、ご
病気のお
孫さんに
持っていってあげてくださいまし。」といって、
渡そうとしました。
おばあさんは
目を
丸くして、
「
千代紙なら、うちの
子はたくさんもっていますよ。そんなものはいりません。」といって
断りました。けれどおじいさんは、
無理に
千代紙をおばあさんに
手渡しました。
「そういうものでありません。またちがった
色の
千代紙をもらうと、
子供というものは、
喜ぶものですよ。」と、おじいさんはいいました。
おばあさんは、
千代紙をもらって、ふたたび、とぼとぼとつえをついて
歩いて
帰りました。
空には、いい
月が
出ていました。おばあさんは、
家に
帰って、こいが
跳ねて
河の
中に
飛び
込んで、そのお
金を
払ったということを
話しますと、
美代子さんのお
母さんは、
「おばあさんが、こいを
受け
取りもなさらないのに、
逃げたこいのお
金を
払うのは、ほんとうにばかばかしいことですね。」といわれました。けれど、
美代子のお
父さんは、
「それはめでたいこった。きっと
美代子の
病気はなおってしまうだろう。」と、ちょうどあの
髪の
長い、
易者がいったようなことをいわれました。
そして、おばあさんが、こいが
逃げたときのことをくわしく、みんなに
話しますと、うちじゅうのものは、そのときの
有り
様がどんなにおかしかったろうといって、
声をたてて
笑いました。
美代子さんは、
明るい
燈火の
下でこの
話を
聞いていましたが、やはりおかしくてたまりませんでした。そして
逃げていったこいは、いまごろどうしたろう。
河をのぼって、
自分の
故郷へ
帰ったろうか。そうであったら、こいの
子供や、お
友だちは、どんなに
喜んで
迎えたろうと
考えました。
おばあさんは、たもとの
中から、
美しい
千代紙を
出して
美代子さんに
与えました。
「この
千代紙は、こい
売りのおじいさんが、
孫に
買っていってやろうと
思ったのを、おまえが
病気だというのでくれたのだよ。」と、おばあさんはいわれました。
「しんせつなおじいさんですね。」と、
美代子さんのお
母さんは、いわれました。
「こいのかわりに、
千代紙をもらったのさ。」と、お
父さんは
笑われました。
美代子さんは、そのこい
売りのおじいさんにも、また
自分のような
年ごろの
孫があるのだと
知りました。そして、その
子は、どんなような
顔つきであろう? なんとなくあってみたいような、またお
友だちになりたいような、なんとなくなつかしい
気持ちがしたのであります。
「
先生が、
今日おいでになって、
美代子は、お
腹に
虫がわいたのではないか? そのお
薬をあげてみようとおっしゃいました。きっとそうかもしれませんよ、あんまりいろいろなものを
食べますからね。」と、お
母さんは、お
父さんにいわれました。
「おばあさん、こいは
食べないほうがよかったかもしれません。」と、お
父さんはいわれました。
「
早くなおって、
学校へゆくようにならなければいけません。もうじきに
花が
咲くのですもの。」と、お
母さんは、だれにいうとなく
話されました。
美代子さんは
燈火の
下で、
千代紙をはさみで
細かに
切って、いろいろな
花の
形を
造っていました。そして、
病気がなおったら、お
友だちと
野原や、
公園へ
遊びにゆこうと
考えていました。
窓を
開けると、いい
月夜でした。
美代子さんは、
自分の
造った
千代紙の
花をすっかり、
窓の
外に
投げ
散らしました。
二、三
日すると、
庭には、いろいろな
花が、一
時につぼみを
破りました。
千代紙の
花が、みんな
木の
枝について、ほんとうの
花になったのです。そして、
美代子さんの
病気はすっかりなおりました。
――一九二三・二作――
分享到: