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常に自然は語る
日期:2022-11-26 23:56  点击:215
 

常に自然は語る

小川未明


天心に湧く雲程、不思議なものはない。
自分は、雲を見るのが、大好きだ。そして、それは、独り私ばかりでなく、誰でも感ずることであろうが、いまだ曾て、雲の形態について、何人も、これをあらかじめ知り得るものがないということだ。
時に、流れて、帯のように細くなり、そして、いつしか煙のように消えて、始めの形すらあとにとゞめない。時に、重々として、厚さを加え、やがては、奇怪な山嶽のように雄偉な姿を大空にもたげて、下界を俯瞰ふかんする。しからざれば陰惨な光景を呈して灰白色となり、暗黒色となり、雷鳴を起し、電光を発し、風を呼び、雨をみなぎらせるのであるが、そのはじめに於て、千変万化の行動に関して、吾人のはかり知ることを許さないのが雲である。
神出鬼没の雲の動作程、美と不可知の力を蔵するものは他にあるまい。しかし、たゞ、それは、自然の意志の反映なのである。即ち、自然なるが故に、自由なのである。言い換えれば自然は、自由そのものであるからだ。
雲に思いを寄せ、追懐と讃美をほしいままにしたものは、いくばくの放浪者や、ロマンチストだけではなかった。シェレーや、ボードレールや、レヴィートフのような、詩人だけではなかったのである。
さらに、私は、雲に対して、驚異を感ずるのだった。いかにして、あの鏡の如き空に、生ずるかを。その始めは、一片の※(「糸+慍のつくり」、第3水準1-90-18)毛の飛ぶに似たるものが、一瞬の後に、至大な勢力となり、さらに、一瞬の後には、ついに満天を掩いつくすを珍らしとしない。小なるものが次第に成長して、大きくなるのには、理由の存するとして、敢て、不思議とは考えないが、いかにして、その始め、一点の雲を生ずるかについてである。
思え、熾烈無比の太陽は、何ものをも焼きつくさんとしているではないか。ために大地は熱し、石は焼け、瓦は火を発せんばかりとなり、そして、河水は渇れ、生命あるもの、なべてうなだれて見えるのに、一抹の微小なる雲が、しかも太陽直下の大空に生れて成長するのを、私は不思議とせずにいられないのだ。
社会について考えるものは、空の現象は、即ち、これ社会に於ける、すべてのものの象徴であるとは考えまいか? 尚それに近き例を、芸術の上に取ることも出来る。
作家は、空想する自由を有している。空想は、ちょうど雲のようなものだ。はじめは、形の定らない、影のごときものであった。しかし空想は、想像となり、想像は、思想にまで進展し、やがて、それは内部的な一切の衝動のあらわれとなって、外面に向って迫撃する。これは、外的条件が、内的の力を決定するのでない。
こゝに、自由の生む、形態の面白さがあり、押えることのできない強さがあり、爆破があり、また喜びがあるのである。自然の条件に従って、発生し、醗酵するものゝみが、最も創意に富んだ形を未来に決定するのである。それ故に、機械主義的な構成に、また強権主義的な指導に、真の創造はあり得ないであろう。
人間は、意識的に、形態を定めることはできる。しかし、詩を作り、幸福を産むことはできない。強権下には、永遠に、人生の平和はあり得ないごとく。たゞ、純情に謙遜に、自然の意思に従って、真を見んとするところに、最も人生的なる、一切の創造はなされるのであった。
私は、民謡、伝説の訴うる力の強きを感ずる。意識的に作られたるにあらずして、自然の流露だからだ。たゞちに生活の喜びであり、また、反抗、諷刺である。いかなる有名の詩人が、これ以上の表現をなし得たであろうか? いかなる天才が、これに優れる素朴の技巧を有したであろうか? 巧まずしてしかも、鋭敏。彼等が、これを口ずさむ時は、生活の肯定であった。支配者に対する反抗であった。しかも、また、自らの作業をはかどらせるための快い調でもあった。故に、喜びがあり、悲しみがあり、慰めがある。そして、狭小、野卑の悪感を催さない。なぜならば、これ、一人の感情ではなかったゝめだ。郷人の意志であり、情熱であった。これを、土と人とが産んだものと見るのが本当であろう。
民謡を都会の舞台に乗せたり、また、職業的詩人をして、一夜造りに、これに類するものを作らせようとする者程、詩を解しないものはない。まさに、時代は、かくのごとく詩を解さないのである。
夏は来た。雲を見、その下に横わる曠野を想い、流るゝ河を眼に描き、さらに生活する人々を考える時、郷愁豊かなる民謡の自ら念頭に浮ぶを覚える。永遠に、人は、土を慕い、自由を求めてやまないのだ。一切の虚偽を破壊するものは、常に、心の底に流れる、この単純化のロマンチシズムであることを忘れてはならない。

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