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日期:2022-11-26 23:56  点击:218
 
翁は今迄、生徒に対して、数学を教えるのにも、ゆったりとした調子で優しく教えたのが、全く口早に何をいうのか分らなくなって折々おりおりは独りで腹を立てて、独り口の中で何かいってへやの中を歩き廻ることがある。――翁の身形は、全く僧侶になり変ったのだ。この頃の翁は、日曜日になって教壇に立っても、暗黒とか、罪悪とかいうことを口ぎたなく罵るのみであった。
木枯の吹く寒い日に、計算翁は例の如く黒い服を裾長く地面じびた引摺ひきずって、黒頭布を被って、手に聖書を持って、町の中を右左に歩き廻った。而して、町端まちはずれの寺などに行って、落葉の降る墓場の中に立って、足下あしもとのその名も知らない冷たな墓石をなでて考え込む。
そうかと思うとまた聖書の一節を口早に叫んで、次の墓にいってまたその冷たな墓石を撫で、何か口の中で言っている。また気を揉むようにその次の墓石に行って、ひややかな石のおもてを撫でて頭を傾げた。こういうように幾つも幾つもの墓石の前に立っては同じことをやっているうちには、いつしか気がしずまると見えて、また木枯の吹きすさぶ町の中を黒い服を地上に引摺って、蔦の絡んだ白壁の教会堂の方へと帰って行くのだ。
町の人々は、いつしか翁を気が狂ったと言い出した。中にはそうでない、翁は神様に祈る真似をするのだといって、翁のすることをすべて見逃していた。けれど翁に数学を習いに来た子供等は、翁がこの頃訳の分らぬことをいうのと時々腹を立てて、顔を真赤にして、手を振り足音を荒げて室内を歩き廻るので、怖しいといって来なくなったものも沢山ある。が、の赤目のちぢれ毛の跛をったように生徒をったことを聞かぬ。或時には癇癪かんしゃくおこして持っている石筆をば、ストーブを目がけて投げ付けたことがある。其様そんな時には白い石筆が微塵みじんに砕けて散って、破片は窓の硝子を打ったり、ベンチの上に飛び散った。
翁が、日に増し気が変って来るにつれて、益々ますます神とか、死とか、命とか、時とかいうような哲学上の問題を相手が分るにせよ、分らぬにせよ誰れ彼の区別なく顔を見る人に向って説き付けるようになった。――赤目のちぢれ毛のちんばにさえ、偶々たまたまストーブに薪を入れに来るのを呼びとめて、霊魂不滅を説ききかせたことがある。赤目のちぢれ毛は遂には翁をば怖しい人だと思って翁がただ独りで教壇に向って、瞑想めいそうしている時などには、たとえストーブが冷かになるということを知っても薪を持ち運ばぬようになった。けれど翁は、赤目のちぢれ毛の、怠惰者なまけものの夫に向っては神を説き聞かしたことが一度もない。
何となれば翁は、斯様怠惰者の酒飲は到底言っても役に立たぬ、神は決して斯様人をも救い給わぬといって始めから眼中に入れずにいる。……翁は、未だかつてこの大男の顔をしげしげと見たことがない。路上に転がっている石の如く思っていた。
翁は自分の居間で食事をしたり、寝たりするのは赤目のちぢれ毛のびっこも決して見たことがないという。食事の時、寝る時共に厚い扉を堅くしめて、べて秘密にしている。ただ毎朝早く翁は、町に出て、自分で野菜を買いに行くのが例である。――肉や、パンは先方で車を引いて来て小僧が届けることになっている――が青々とした野菜や、紅い果物を翁は毎日のように買いに出た。或時は風呂敷に包んで来る。或時は、露わに片手に林檎りんごを握って、片手に青菜を揺下ぶらさげて帰る。
いつの頃からか翁は外国人だという説が持ち上った。いや雑種人あいのこだ。いや全くの日本人だという説がある。けれど全く翁は、何方どちらとも分らぬ程の不思議な人物である。
メソジストの全国教会名簿には、翁の名は何とかいてあったろう?
翁に向ってその名を問うとくびを振って決して答えない。又親や、兄弟があるかと問うても、ただ「無い。」といってのことは語らなかった。……
嵐が戸外に吹きすさんで物凄い晩であった。赤目のちぢれの跛がしんとした真夜中頃、扉を細目に開けて、広間を覗くと、冷かな風が隙間を漏れて来る。その大広間のうちに一人翁は黒服を身に纏って半白の髭をはやし、頭に黒頭巾を被って顔色は青ざめて、幽霊のようにやつれてじっと教壇に向って真直まっすぐに何やら、一定のものを見詰めていた。前の机には書物が伏せてあった。この円い大きなテーブルの中央まんなかには、僅かに一本の蝋燭ろうそくともっているばかりであった。その火影は寒さにって、穂尖ほさきが細く、しんが赤くなって、折々自然にゆらゆらとひらめくのが、翁の姿を朧気おぼろげに照していた。四方の壁際までにはやっとその光りが泳ぎ着く位で、四は灰色の壁が朦朧もうろうと浮き出てストーブの火もいつしか消えていた。硝子窓にさらさらと落葉が当って轟々ごうごうと北風が家をゆすって、そのたびに、かたんかたんと窓の障子が鳴るのであった。――赤目の女は暫時ざんじ扉の隙から見守っていたが、容易に翁が身動きもせずにじっとしているので、そのまま音を盗んで扉を閉めて、自分等の室に歩みを返しててしまったという。
一日、空が暗く掻き曇った日にこの町で信者の牛肉屋の娘がしんだ。――急にんで死んだのだ――翁は使つかいをうけて早速出掛けた。――長い黒服を引摺って黒頭巾を被って、手に小形の聖書を持ってその家を訪れた。両親や、親戚やが枕許に取り巻いて泣いている。翁は、早速用意してあった大きな十字架の上に娘を仰向にさせた。――鍛冶屋かじやから五寸釘を五本買って来るように命じた。死んだ少女おとめの黒髪は房々ふさふさとして、額をおおって、両眼はすやすやと眠るように閉じている。顔色は、ろうのように白かった。翁は、自から大きな鉄槌かなづちを取り上げて、少女の両手を拡げさせて、動脈の打つ手頭てくびのあたりへ五寸釘をち込んで、白木の十字架に打ち附けた。がんがんと釘が真白な、しなやかな手頭を貫いて、下の白木の十字架に打ち立つ時、一同周囲に見守っている親、親戚は等しく見るに見兼みかねて眼を掩うた。中にも父親は歯を喰いしばって顔をそむけた。母親は、「ナゼ基督教キリストきょうなどにしたものか。」と後悔した。計算翁は其様ことに頓着なく、両手をしかと十字架に打ち止めてしまった。――かくて両足も足頭あしくびのあたりから、がんがんと打ち貫いた。重たらしい陰気なこの鉄槌の音は低い、暗い空に悪強く響くようだ。――最後に、翁は冷笑あざわらって一本の五寸釘を取り上げて、少女の眉間に打込うちこもうとして、片手に握った鉄槌を振りかざして、片手に持った釘を白百合のような額にあてた刹那せつなだ。
「コラ何する、おまちなさい。」と翁におどりかかって、その釘にしがみ付いたのは母親である。
「この気狂きちがい! 私の娘に何をするんだ。可哀想に釘を打ち付けるということがあるもんか。」
と狂気の如くけんで、翁の顔に今にも飛びかからん形相ぎょうそうで睨みつけた。けれど翁は「何をするんだ。」と落付いて、一声冷かにいって、冷笑ってぴくりとも動かなかった。
「キリスト様もこうやって死なれた。この子も神のために犠牲ぎせいになるんだ。」といって、また額に釘を当てて、打ち込もうと鉄槌を握った太い手頭てくびに力瘤を入れた。――にくい悪い日頃から悪んでいる悪魔にでも、この時この一撃で息の音を止めて、恨みをはらしてやるというような面構つらがまえできっと青褪めた白百合のような眠っている少女の顔を睨み落した。

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11/15 11:03