翁は今迄、生徒に対して、数学を教えるのにも、ゆったりとした調子で優しく教えたのが、全く口早に何をいうのか分らなくなって
折々は独りで腹を立てて、独り口の中で何かいって
室の中を歩き廻ることがある。――翁の身形は、全く僧侶になり変ったのだ。この頃の翁は、日曜日になって教壇に立っても、暗黒とか、罪悪とかいうことを口ぎたなく罵るのみであった。
木枯の吹く寒い日に、計算翁は例の如く黒い服を裾長く
地面に
引摺って、黒頭布を被って、手に聖書を持って、町の中を右左に歩き廻った。而して、
町端の寺などに行って、落葉の降る墓場の中に立って、
足下のその名も知らない冷たな墓石を
撫て考え込む。
そうかと思うとまた聖書の一節を口早に叫んで、次の墓に
行てまたその冷たな墓石を撫で、何か口の中で言っている。また気を揉むようにその次の墓石に行って、
冷かな石の
面を撫でて頭を傾げた。こういうように幾つも幾つもの墓石の前に立っては同じことをやっているうちには、いつしか気が
静ると見えて、また木枯の吹き
荒ぶ町の中を黒い服を地上に引摺って、蔦の絡んだ白壁の教会堂の方へと帰って行くのだ。
町の人々は、いつしか翁を気が狂ったと言い出した。中にはそうでない、翁は神様に祈る真似をするのだといって、翁のすることをすべて見逃していた。けれど翁に数学を習いに来た子供等は、翁がこの頃訳の分らぬことをいうのと時々腹を立てて、顔を真赤にして、手を振り足音を荒げて室内を歩き廻るので、怖しいといって来なくなったものも沢山ある。が、
彼の赤目のちぢれ毛の跛を
打ったように生徒を
擲ったことを聞かぬ。或時には
癇癪を
起して持っている石筆をば、ストーブを目がけて投げ付けたことがある。
其様時には白い石筆が
微塵に砕けて散って、破片は窓の硝子を打ったり、ベンチの上に飛び散った。
翁が、日に増し気が変って来るにつれて、
益々神とか、死とか、命とか、時とかいうような哲学上の問題を相手が分るにせよ、分らぬにせよ誰れ彼の区別なく顔を見る人に向って説き付けるようになった。――赤目のちぢれ毛の
跛にさえ、
偶々ストーブに薪を入れに来るのを呼びとめて、霊魂不滅を説き
聞せたことがある。赤目のちぢれ毛は遂には翁をば怖しい人だと思って翁がただ独りで教壇に向って、
瞑想している時などには、たとえストーブが冷かになるということを知っても薪を持ち運ばぬようになった。けれど翁は、赤目のちぢれ毛の、
怠惰者の夫に向っては神を説き聞かしたことが一度もない。
何となれば翁は、斯様怠惰者の酒飲は到底言っても役に立たぬ、神は決して斯様人をも救い給わぬといって始めから眼中に入れずにいる。……翁は、未だ
曾てこの大男の顔をしげしげと見たことがない。路上に転がっている石の如く思っていた。
翁は自分の居間で食事をしたり、寝たりするのは赤目のちぢれ毛の
跛も決して見たことがないという。食事の時、寝る時共に厚い扉を堅くしめて、
総べて秘密にしている。ただ毎朝早く翁は、町に出て、自分で野菜を買いに行くのが例である。――肉や、パンは先方で車を引いて来て小僧が届けることになっている――が青々とした野菜や、紅い果物を翁は毎日のように買いに出た。或時は風呂敷に包んで来る。或時は、露わに片手に
林檎を握って、片手に青菜を
揺下げて帰る。
いつの頃からか翁は外国人だという説が持ち上った。いや
雑種人だ。いや全くの日本人だという説がある。けれど全く翁は、
何方とも分らぬ程の不思議な人物である。
メソジストの全国教会名簿には、翁の名は何と
書てあったろう?
翁に向ってその名を問うと
頭を振って決して答えない。又親や、兄弟があるかと問うても、ただ「無い。」といって
余のことは語らなかった。……
嵐が戸外に吹き
荒んで物凄い晩であった。赤目のちぢれ
髪の跛がしんとした真夜中頃、扉を細目に開けて、広間を覗くと、冷かな風が隙間を漏れて来る。その大広間の
裡に一人翁は黒服を身に纏って半白の髭を
生し、頭に黒頭巾を被って顔色は青ざめて、幽霊のように
窶れて
眤と教壇に向って
真直に何やら、一定のものを見詰めていた。前の机には書物が伏せてあった。この円い大きなテーブルの
中央には、僅かに一本の
蝋燭が
点っているばかりであった。その火影は寒さに
凝って、
穂尖が細く、
心が赤くなって、折々自然にゆらゆらと
閃めくのが、翁の姿を
朧気に照していた。四方の壁際までにはやっとその光りが泳ぎ着く位で、四
囲は灰色の壁が
朦朧と浮き出てストーブの火もいつしか消えていた。硝子窓にさらさらと落葉が当って
轟々と北風が家を
揺って、その
毎に、かたんかたんと窓の障子が鳴るのであった。――赤目の女は
暫時扉の隙から見守っていたが、容易に翁が身動きもせずに
熟としているので、その
儘音を盗んで扉を閉めて、自分等の室に歩みを返して
眠てしまったという。
一日、空が暗く掻き曇った日にこの町で信者の牛肉屋の娘が
死だ。――急に
病んで死んだのだ――翁は
使をうけて早速出掛けた。――長い黒服を引摺って黒頭巾を被って、手に小形の聖書を持ってその家を訪れた。両親や、親戚やが枕許に取り巻いて泣いている。翁は、早速用意してあった大きな十字架の上に娘を仰向に
臥させた。――
鍛冶屋から五寸釘を五本買って来るように命じた。死んだ
少女の黒髪は
房々として、額を
掩って、両眼はすやすやと眠るように閉じている。顔色は、
蝋のように白かった。翁は、自から大きな
鉄槌を取り上げて、少女の両手を拡げさせて、動脈の打つ
手頭のあたりへ五寸釘を
打ち込んで、白木の十字架に打ち附けた。がんがんと釘が真白な、しなやかな手頭を貫いて、下の白木の十字架に打ち立つ時、一同周囲に見守っている親、親戚は等しく見るに
見兼ねて眼を掩うた。中にも父親は歯を喰いしばって顔を
背けた。母親は、「ナゼ
基督教などにしたものか。」と後悔した。計算翁は其様ことに頓着なく、両手をしかと十字架に打ち止めてしまった。――かくて両足も
足頭のあたりから、がんがんと打ち貫いた。重たらしい陰気なこの鉄槌の音は低い、暗い空に悪強く響くようだ。――最後に、翁は
冷笑って一本の五寸釘を取り上げて、少女の眉間に
打込うとして、片手に握った鉄槌を振りかざして、片手に持った釘を白百合のような額にあてた
刹那だ。
「コラ何する、お
待なさい。」と翁に
跳りかかって、その釘にしがみ付いたのは母親である。
「この
気狂! 私の娘に何をするんだ。可哀想に釘を打ち付けるということがあるもんか。」
と狂気の如く
叫けんで、翁の顔に今にも飛びかからん
形相で睨みつけた。けれど翁は「何をするんだ。」と落付いて、一声冷かにいって、冷笑ってぴくりとも動かなかった。
「キリスト様もこうやって死なれた。この子も神のために
犠牲になるんだ。」といって、また額に釘を当てて、打ち込もうと鉄槌を握った太い
手頭に力瘤を入れた。――
悪い悪い日頃から悪んでいる悪魔にでも、この時この一撃で息の音を止めて、恨みを
晴してやるというような
面構できっと青褪めた白百合のような眠っている少女の顔を睨み落した。
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