何故か、母親ばかりでない、この座に居合せた人達は、とてもこの動かすべからざる偉大な力に伏したように翁のすることを
止めるものがなかった。母親は声を忍んで翁の手の
下に泣き
砕れた。――娘の胸の上に片手を置いて、片手で顔を掩うて泣いた。
「
犠牲になるんだ。」
「止めるな。」といい様、がんがんと額の骨を打ち砕いて、無惨にも釘は少女の額から下の白木の十字架に深く打ち貫かれた。――それが済むと翁は、その儘黒い服を引摺て黒い帽を被ったまま其処に立って、一同を冷かに見廻した。
四辺は水を打ったように静かであって誰れ一人翁を見上げたものがない。翁は青い
榊の枝を取上げて、それで少女の顔を掩うて静かにその家を立去った。
急に、
「悪魔!」
「人殺し!」というような声が湧き上って、後から人が追って出る気はいがした。
悪寒い曇った天気は、夕方から雨になった。
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或夜翁は、
忽然として悟ったという。……その日は
恰かも冬で雪の降る日であった。……翁は朝早く、身に附けていた黒の衣も頭巾も脱ぎ捨てて、
上下共にちょうど外に降る雪のような白装束に着換えたのである。――白い頭巾の結び紐は、背のあたりに垂れ下って、胸に掛けた小さな黄金の十字架が、しんとした空気の
裡に輝きを放っていた。翁は、説教壇の前に
跪いて、其処に凍え固ったものの如く、火の気のない教会堂の広間に眤として祈りを捧げたまま身動きもしなかった。外には北風に
煽られて、銀粉のような雪片が、さらさらと硝子窓を打って飛び舞っていた。
物憂げな薄暗い冬の半日は、
吹雪の裡に過ぎてしまった。翁は、外に
暴れ狂う吹雪も知らぬ如く、全く時間と空間の裡から、見捨てられた人のように眤として身動きもせずに跪ずいて神に何事をか
祈を捧げていた。
やがて午後になると町の子供等が、いつもの如く数学を習いに来る時刻となった。――けれどこの頃にはもはや一人減り、二人減りして、毎日
欠さずに来る子供は僅かに一人しかなかった。その子供はこの町の、貧しき家の子であった。翁が報酬を取らずに教えてくれるので、少し位ツライことがあっても、今日まで我慢して熱心にやって来るのである。雨の降る日も――風の吹く日も――はた雪の日も――欠かさずにやって来る。
教会堂の時計は三時を打った。
いつも学校が三時に
退けると、此処まで来る時間が二十分ばかりかかる。きっとその時刻になるとやって来るのだ。
今日は雪が降って、風が強くて、
目口も
開かぬ程だから、少し、いつもよりは遅れて来るだろう。……時計の刻む音は、火の気のない
寂然とした広間に響いて、
針線は目に見えぬ位に、しかし
用捨なく進んだ。
三時二十分は過ぎたけれど、その子供はまだやって来なかった。やがて三時三十分は過ぎたけれどまだ見えなかった。
今時計の長針は三十分と四十分の間にあった。
この時表の扉の外でコトコトと小さな足で雪を落す音がした。……来たのである。
ギーイと重たい扉が開くと、年の頃十二三の子供が雪に
塗れて、手足を赤くして入って来た。
翁はまだ、死んだ如く、説教壇の前に
跪ずいて祈りを捧げている。
子供は怖る怖る翁の傍に近寄って、
「先生。」と呼んだのである。
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