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点(4)
日期:2022-11-26 23:56  点击:219
 
けれど翁には、この声が聞えなかった。再び子供は、
「先生。」と呼びかけた。
けれど翁の身体しんたいは、びくとも動かずに跪ずいたまま眤としていた。
「先生!」と稍々やや大きく叫んだ。
この時、翁は空想から醒めたもののように、静かに身を起して端然として子供の前に起ち上って、自分の前に寒さと一種の畏敬の念にふるえて立っている子供を見下した――その眼には涙がたたえられて、顔には神々こうごうしい柔和な光りが輝いていた。
子供は、今迄斯様優しい、懐しい、顔を仰いだことがなかった。
――険しい眼――輝くひとみ――物凄い顔――是等これらの過去のイメージが全く心の目から取れないのにかかる柔和な、穏かな顔を見ようとは思わなかった。
子供の胸の中は、一時に温かく血潮が廻った。子供の眼にも希望の輝きがひらめいた。
「先生!」と呼びかけて、その声がじょうに震えるのを禁じ得なかった。
「人生とはんでしょう。」ときっぱりと言い放って、胸の熱血の騒ぐのを堪えられないように身を戦わして、翁の前に近づいた。
「よく聞いた!」と翁はいった。この時翁の白い姿は、子供の目に――神秘の金色こんじきの後光の中に包まれて立っているように尊く映じた。

家の裡が薄暗くなるまで、外の吹雪は募った。さらさらといって粉雪の風にあおられて、硝子窓に砕ける音がした。時計の刻む音は、冷かな空気に伝わって、死したる天地の胸に刻み込むようだ。
翁は、高く壁に吊された黒板の前に立った。眤と真黒く拭い清められた板を見上て、やがてそれをゆびさして子供を顧みた。……黒板の下の溝には白墨はくぼくが二本置かれてある。
「あれに、私がいう数程ボチを書くんだ……。」といった。
子供は翁に命ぜられたまま黒板の前に進んだ。けれど子供のせいは手を伸しても爪立つまだちをしてもその黒板のおもてまでは届かなかった。
子供は白墨を握って、再三、爪立をしてはその黒板に白墨を付けようと試みた。けれど僅かに手が付くばかりで充分に達しない。
翁は黙って、子供のする様をかたわらに立って冷かに見ていた。
子供は、早速考えついて、後方うしろに居並んでいたベンチを一つ引摺って来て黒板の下に置いて、それを足場としてその上に立って、白墨をって用意した。
翁は、ベンチの上に立った子供を見上た。――短い破れたはかまには、雪がかかって湿れている。――足には足袋たび穿かずに、指は赤く海老のように凍えていた。翁は、おごそかに、
「その黒板にはっきりと三万六千の点数をお書きなさい。」
と子供に命じた。
子供は黙答して、ふるえる指頭ゆびさきで黒板の片隅から、一つ、二つと小声に言いながら書き始めた。
なるたけ、はっきりと分るように……。」と翁は、いって黒板に書かれたボチを睨んで言った。で、自分は足許の椅子に腰を下して、眤と眼をつぶって、両手を広い額に当てて瞑想に耽ったのである。白い髭に微かに洩れる鼻息が白くこごってかかった。
室内は再び寂然せきぜんとした。
外には、相変らず吹雪の音がする。時計の針はセコンドのきぎんで行く音につれて、目に見えぬけれど動いた。
いつしか四時は鳴った。
子供は、お熱心に口のうちで数をかぞえながら、てんを書き付けている。翁はやはり教壇の椅子に腰をかけたまま俯向して、両手を額にあてて瞑想に耽っていた。
時計の針は四時三十分を指した。
冬の日は暮れるに早い。この時は全く室の裡は薄暗くなった。――子供はちょうど三万六千点を黒板に書き終えたのである。
「先生書きました。」といって、子供は白墨を握ってベンチに立ったまま翁を顧みた。翁は立上って黒板を睨んで、ああ、それでよい。一じつがこの点の一つだ。而してお前はまだこの他に幾万の点を打つことも出来るし、数のあることも知っているだろう。けれど畢竟ひっきょう今迄の人間の経験した数は三万に満たないのである。今いった「人生」というものは無数にある点の中の三万六千に過ぎないものである。――きっとこの点の意味を悟る日が来るのだ――。

その後翁は、飄然ひょうぜんとしてこの教会堂を去って何処いずくへ行ったか姿を隠してしまった。今でも、この蔦の絡んだ教会堂は、その儘になって建っている。
もう、壁は落ち、瓦は破れて、扉は壊れて修繕するものがない。今では、一人の婆さんが留守居になって住んでいる。落日は今でもその白壁に纏った紅い蔦の葉を鮮かに照すのである。
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