つばきの下のすみれ
小川未明
一本のつばきの木の下に、かわいらしいすみれがありました。そのつばきの木は、大きかったばかりでなくて、それは真紅な美しい花を開きました。この花を見た人は、だれでも、きれいなのをほめないものはなかったほどであります。
「まあ、なんというみごとな花だろう。」といって、みんなは、そのつばきの木の周囲をまわり、火のもえたつような花に見とれました。
すみれは、やはり、そのころ、紫色のかわいらしい花を咲いたのです。しかし、この大きなみごとなつばきの木の下にあっては、人の目に入るにはあまりに小さかった。あわれなすみれは、それで、心なしに歩く人々から、頭をふまれたのです。
せっかく、春に遇うて、これからはなやかな、暖かい太陽の光を浴びて、ちょうや、みつばちの歌を聞いて、楽しい日を送ろうと思っているまもなく、花も、葉も、ふみにじられて、見る影もなくなってしまいました。
それは、すみれにとって、どんなに悲しいことでありましたでしょう。つぎの年も、またつばきの木には、真紅な大きな花が、たくさんに咲きました。人々は、みなその近くに寄って、これをながめて、
「なんという美しい花だろう。」といって、ほめないものはなかったのです。ちょうど、そのとき、すみれがやっと、小さなつぼみを破って紫色の花を開いたのです。
「ああ、なんという私は不幸なものだろう。だれも、私に目をとめてくれるものがない。またじきに、だれかにふまれてしまう運命であろう。」と、わなわなと、身を震わしていました。
すると、この家に、竹子さんというやさしい少女がありました。やはり、裏の庭に出て遊んでいましたが、ひとり、竹子さんだけは、星のようなすんだ、うるおいのある瞳を、つばきの木の下のすみれの上にとめました。
「ここに、すみれがあってよ。あたしは、すみれが大好きなの。こんなところにあっては、みんなに踏まれてしまうわ。」といって、はじめて竹子さんは、すみれに注意してくれました。
すみれは、どんなにうれしく思ったでしょう。心の中で、ほんとうにお嬢さんに見つけられなければ、また人に踏まれてしまうか鶏につつかれて、芽を出したかいもなく、見る影もなくなってしまうものだと思いました。
「あたしは、すみれを鉢に移してやりましょう。」と、竹子さんはいって、すみれをば地面から離して、素焼きの鉢の中に移しました。すみれは、自分の生まれ出た地面から離されることは、たいそう悲しゅうございました。もう二度と太陽の光は見られないんでなかろうか、そして、あの夜々に、大空に輝く大好きな星の光を望むことができないのでなかろうかと、愁いましたが、また、やさしいお嬢さまのなさることだと、安心をしていました。
竹子さんは、すみれの植わった鉢を、自分の勉強する机のそばに持ってきました。すみれはそこで、目ざまし時計や、きれいな表紙のついている雑誌や、筆立てや、また、竹子さんが、学校で稽古をなさるいろいろな本などを見ることができました。しかし、この生活は、すみれにとって、あんまり好ましいものではなかったけれど、つばきの木の下にいて人間に踏まれたり、鶏につつかれたりすることを考えたら、とても比較にならぬほどしあわせなことでありました。もしここで、太陽の光と、星の輝くのが見られ、そして、みつばちや、ちょうがきてくれたなら、すみれは、おそらくこんなに安全な生活はなかったのでありましょう。
すみれの花は、しばらくの間は、竹子さんの机のそばで咲いていました。竹子さんは、水をやることをけっして怠りませんでした。そして、いつしか、すみれの花も終わりに近づいてきました。すみれは、そのころは、もう家のうちの生活にあきてしまって、ふたたび、大地の上に帰りたいと思う心が、しきりにしたのでありました。
「お母さん、すみれの花は、もうおしまいですね。」と、ある朝、竹子さんは、お母さんに向かって、いいました。
「ああ、もうおしまいですよ。」と、お母さんは返事をなさいました。
「これを地面におろしてやりましょうね。」と、竹子さんは、またお母さんに聞きました。
「そうです。来年、また、花が咲くから、おろしておやりなさい。」と、お母さんは、答えられました。
「どこが、いいでしょう。」
「いつかあったところが、やはり地が、すみれに合っていていいでしょう。」
すみれは、竹子さんと、お母さんの話を聞くと、ふたたび大地に帰られるのを知って、うれしくてたまりませんでした。
竹子さんは、すみれをもとはえていたつばきの木の下におろしました。そして、人間にふまれたり、鶏につつかれないように、棒を立て、すみれを保護したのでありました。すみれは、そのことをどれほど深く、ありがたく思ったかしれません。
すみれは、安心して、長い月日を送りました。秋がきたときに、葉は枯れ、そのうちに冬となって雪が降って、地面も、つばきの木も、みんな、雪の下になってしまいました。
明くる年の春のことであります。つばきの花が、真紅に咲く時分に、やはりすみれも紫の花を開きました。しかし、去年、竹子さんが棒を立ててくれましたので、いまは、人にふまれたり、鶏につつかれたりする心配はなくて、まことにすみれは安心して、太陽の光を浴びて、のどかな日を楽しむことができたのです。
「これも、みんなお嬢さんのごしんせつからだ。」と、すみれは思いますと、一時も早く、やさしい竹子さんの姿を、見たいものだと思ったのです。
すみれは、竹子さんの姿を慕い、憧れましたけれど、やさしい少女の姿は、ついに庭には現れなかった。それもそのはずのこと、竹子さんは、雪のまだ消えないころに、叔父さんにつれられて、都の学校へゆかれたのです。
すみれは、なに不足なかったけれど、ただお嬢さんの姿が見られないのを悲しんでいました。
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