てかてか頭の話
小川未明
ある田舎に、おじいさんの理髪店がありました。おじいさんは、もうだいぶ年をとっていまして、脊が曲がっていました。いいおじいさんなものですから、みんなに、おじいさん、おじいさんと慕われていました。
ちょうど、夏の昼過ぎのことであります。お客が一人もなかったので、おじいさんは、居眠りをしていました。
家の外には、きらきらとして暑そうに日の光がさしていました。往来の土は乾ききって、石の頭までが白くなっていました。あまりあついとみえて、犬一ぴき通っていませんでした。よく遊びにくる近所の子供らも、みんな昼寝をしているとみえて姿を見せません。ただせみが、あちらの森の方で鳴いているのが聞こえてきたばかりでした。
白髪頭のおじいさんは、いい気持ちで、こっくり、こっくりと腰かけて居眠りをしながら夢を見ていました。
「おじいさん、僕にとんぼを捕っておくれ。」と、隣のわんぱく坊やがねだっているのです。
「私は、目が悪くて、とんぼのほうが、よほどりこうだから、それだけはだめだ。」と、おじいさんはいっていました。
「よう、あすこにいるおはぐろとんぼを捕っておくれ。捕ってくれないとぶつよ。」と、わんぱく坊やがいっています。
おじいさんは、「こいつめが。」といって、坊やを追いかけようとすると目がさめました。ちょうどそのとき、そこへ脊の高い若者が入ってきました。
「おいでなさい。」と、おじいさんは、目をこすりながら立ち上がりました。そして、曲がった脊をのして、いすに腰をかけて、鏡に向かっている若者の頭髪を刈ろうといたしました。
おじいさんは、眼鏡をかけて、はさみをチョキチョキと鳴らしながら、くしをもって、若者の頭髪にくし目を入れてみて驚きました。その頭髪は、ごみや砂で汚れて、もう幾年も手を入れたことのないような頭髪でありました。
「おまえさんは、どこからきなさった。」と、おじいさんは、若者に聞きました。
すると、若者は、日に焼けた、真っ黒な顔を向けて、おじいさんにいいました。
「俺かい、俺は、山ん中から出てきた。町なんかめったに出たことはねえだ。俺、この間、途中でたいへんにきれいな男の人を見た。その人の頭は、ぴかぴかと岩からわき出る清水のように光っていただ。俺、どうして、あんなに人間の頭ちゅうものが、ぴかぴか光るだかと、いろいろの人に聞いたら、中で、それは、鬢付け油というものを塗るからだと教わった。俺、一生に一度でいいから、あんなぴかぴかした頭になってみたいと思ってきただ。途中で、いちばん上等な鬢付け油を高い金出して買ってきたから、これを俺の頭にみな塗ってもらうべえ。」と、その若者はいいました。
「それで、おまえさんはやってきなすったか。」と、人のいいおじいさんは、笑って聞きました。
「ああ、それできた。ここに一本あるんだが、これじゃたりないかえ。」と、若者は、買ってきた一本の鬢付け油を懐の中から出しました。
おじいさんは、それを受け取って、
「こりゃほんのちょっとつけりゃいいのだ。なんでこれ一本なんかいるものか。」といいました。
すると、若者は、心配そうな顔つきをして、おじいさんを見ました。
「どうかそれ一本みんな、俺の頭につけてくんなせえ。俺、せっかく買ってきただ。ちょっくらつけて光るものなら、みんなつけたら、一生頭がぴかぴか光っているべえ。後生だから、どうかみんなつけてくんなせえ。」と、頼むようにいいました。
おじいさんは、髪を刈ってしまってから、堅い鬢付け油の端を欠いて、男の頭に塗って、ぴかぴかとしましたから、
「さあ、これでたくさんだ。こんなに頭がぴかぴかとなった。この残りは、また今度つけるがいい。」といって、鬢付け油を若者に渡そうとすると、この脊の高い若者は、おいおいと声をあげて泣き出しました。
「どうか、後生だから、みんなおれの頭に塗ってくんなさろ。」と、泣きながらいったのです。
おじいさんは、しかたがなく、指の頭で、堅い鬢付け油を欠いては、若者の頭に塗りました。額から汗が流れて、指頭が痛くなりました。おじいさんは、指頭に力を入れて、顔をしかめながら、
「このばか溶けろ、このばか溶けろ。」といいながら、やっとのことで、鬢付け油一本をついに若者の頭に塗ってしまいました。
若者は満足して、この理髪店から外に出てゆきました。
若者は、やがて往来に出ると、頭から、とめどもなくだらだらと油が溶けてきました。初めのうちは、それでも元気よく歩いていましたが、しまいには目となく、耳となく、鼻となく油が流れこんできて、目口も開かなくなったので、若者は、道の上のひとところにじっと動かずに立ち止まってしまいました。
「このばか溶けろ、このばか溶けろ。」と、せみの鳴き声がそういっているように聞こえるかと思うと、だんだん男の体が頭から溶けはじめてきたのです。けれど、ちょうどだれも路を通るものがなかったので、それを見たものがありません。真昼の太陽の下で、男はついに溶けてしまったのです。そして、そこにただ一つ黒い石が残ったばかりでありました。
その後、用事があって床屋のおじいさんがつえをついてそこを通りかかりましたときに、真っ黒な石を見つけて拾い上げました。
「ああ、りっぱな油石だ。」といって、おじいさんは、家に持って帰るために、たもとの中に入れてしまいました。
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