天を怖れよ
小川未明
人間は、これまでものをいうことのできない動物に対して、彼等の世界を知ろうとするよりは、むしろ功利的にこれを利用するということのみ考えて来ました。言い換えれば、利益を中心にこれ等の動物を見、また取扱って来たのです。こうしたところには、彼等の天性の美を見ることも出来なければ、造物主が彼等によって示さんとした天賦の叡智、敏感、正直さというようなものも、ついに知られずにしまったのであります。もしこの世の中に、彼等を心から愛する、文学者、芸術家、若くは真理に忠実な科学者がなかったら、何人か、このものいわぬ謙虚な動物に対して、擁護すべく注意を喚起したものがあったでしょう。多くの人間は、動物を人類に隷属するものの如く考えて来た。しかし造物主は、人間の食用のためにし、玩賞のためにし、また使役するためにせんと、創造したものではなかったでしょう。もし、かく思うならば、誤信にすぎないのであります。なぜなら、彼等は、自ら生存し、自ら楽しみ、自ら種族を遺す自由を有しているからです。
曾て、彼等の祖先によって、この地球が征服されていた時代があったことを考えなければならぬ。そして、また気候の変化したる幾万年の後に至るも果して、今日の如く、人類がこの地球の征服者であると誰が確信するものがありましょうか。適者生存は、犯し難い真理であります。
ハドソンは、いっているが、動物が、人間の用となるためには、どれ程多くの美と天性とを犠牲にしているか知れないと。この言葉は、特に、牛や、馬や、犬や、猫等の如きおとなしい動物について、いえるのであります。
この点、私は、自分の記憶に徴しても、子供の眼と心が、最も正しいといえるのであります。子供が彼等を見、彼等に対する考えこそ、人間として、一番高貴な、同情深い、
たとえば、屠殺場へ引かれて行く、歩みの遅々として進まない牛を見た時、或は多年酷使に堪え、もはや老齢役に立たなくなった、
これらの
斯の如きことを恥じざるに至らしめた、利益を中心とする文化から解放させなければならぬ。昔の人間は、常に天を怖れたものだ。万物の生命を愛してこそ、はじめて人間は偉大たるのであります。この意味に於て、動物文学は、美と平和を愛する詩人によって、また真理に謙遜なる科学者によって、永遠無言の謎を解き、その光輝を発し、人類をして、反省せしむるに足るのであります。