手風琴
小川未明
秋風が吹きはじめると、高原の別荘にきていた都の人たちは、あわただしく逃げるように街へ帰ってゆきました。そのあたりには、もはや人影が見えなかったのであります。
ひとり、村をはなれて、山の小舎で寝起きをして、木をきり、炭をたいていた治助じいさんは自然をおそれる、街の人たちがなんとなくおかしかったのです。同じ人間でありながら、なぜそんなに寒い風がこわいのか。それよりも、どうして、この美しい景色が彼らの目にわからないのかと怪しまれたのでありました。
「これからわしの天地だ。」と、じいさんはほほえみました。
石の上に腰をおろして、前方を見ていると、ちょうど、日があちらの山脈の間に入りかかっています。金色にまぶしくふちどられた雲の一団が、その前を走っていました。先頭に旗を立て、馬にまたがった武士は、剣を高く上げ、あとから、あとから軍勢はつづくのでした。じいさんは、いまから四十年も、五十年も前の少年の時分、戦争ごっこをしたり、鬼ごっこをしたりしたときの、自分の姿を思い出していました。
山へはいりかかった、赤い日が、今日の見収めにとおもって、半分顔を出して高原を照らすと、そこには、いつのまにか真紅に色づいた、やまうるしや、ななかまどの葉が火のように点々としていました。
紺碧に暮れていく空の下の祭壇に、ろうそくをともして、祈りを捧げているようにも見られたのです。
「よく剣ヶ峰が拝まれる。」と、じいさんは、かすかはるかに、千古の雪をいただく、鋭い牙のような山に向かって手を合わせました。
それから、治助じいさんが、自分の小舎にもどって、まだ間がなかったのでした。どこからか、風におくられて手風琴の音がきこえてきたのでした。
「まだ、別荘にいる人たちででもあるかなあ。」
じいさんは、耳を傾けました。それにしてはなんとなく、その音は、真剣で悲しかったのです。
そのとき、小舎の入り口に立ったのは、破れた洋服をきて、かばんを肩にかけ、手風琴を持った色の黒い男でした。
「見たことのある人のようだな。」と、じいさんが男の顔をながめていいました。
「村へ、二、三度きたことがあります。田舎をまわって歩く薬売りですよ。」
「ああ、薬屋さんか、すこし休んでゆきなさい。」と、じいさんが男を小舎の中へいれました。
男は、この村へはいってくるのには、いつも、あちらの山を越えて、しかも、いま時分、高原を通ってくるのだということを話しました。
「どんな、薬を売りなさるのだ。」
じいさんがきくと、男は、いろいろ自分の持っている薬について話したのです。
「私が、命がけで山に登って採った草の根や木の実で造ったもので、いいかげんなまやかしものではありません。一本のにんじんをとりますのにも、綱にぶらさがって、命をかけています。またこのくまのいは、自分が冬猟に出て打ったもので、けっして、ほかから受けてきたものでありません。だから、この薬を飲んできかないことはない。私は、うそをいったり、偽ったりすることができぬ性分です。病気になって苦しんでいる人たちに、わかりもしないめったのものをやれましょうか。いまは、人をだましても悪いと思わなければ、飲んでその薬がきかなくて死んでも、毒にさえならなければかまわぬといった世の中です。私の親父も薬取りでした。そして、命がけで取って薬を売って歩いて、一生を貧乏で送りました。私も子供の時分から山々へ上がって、どこのがけにはなにがはえているとか、またどこの谷にはなんの草が、いつごろ花を咲いて、実を結ぶかということをよく知っていました。親父は、薬売りは、人の命にかかる商売だから、めったなものを持ち歩くことはできない。自分で採って造ったものなら安心して売ることができるといっていましたが、私が、また死んだ親父の後継ぎをするようになりました。この手風琴も親父が持って歩いたものです。」
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