しかし、このきつねの
話は、よほど
誠しやかに、
伝えられたものとみえ、その
翌日だったか、
村の
助役が、
茶屋へ
入ってくると、
「おじいさん、わるいきつねが
出て、
人を
騒がすそうだが、ここでは、なにも
変わったことはないかね。」と、
問いました。
おじいさんは、にこにこしながら、
「あめ
屋さんが、ばかされたといいますが。」
「
村の
女どもも、
町からの
帰りに、ぶらさげてきた
塩ざけをとられたといっている。なんでも、
後からついてきて、さらったものらしい。」
「それは、いつのことですか。」
「つい、二、三
日前のことで、まだうす
暗くなったばかりのころだそうだ。」
そうきくと、おじいさんの
目へ、二、三
人の
若い
女れんが、ぺちゃくちゃとしゃべりながら、この
家の
前を
通った、
姿が
浮かびました。その
中の
一人は、
背にさけをぶらさげていたが、からだをゆすって
笑うたびに、さけが、
右へ、
左へ、ぶらぶらと、
振り
子のようにうごいて、
途中で
落ちなければいいがと、こちらから
見ていて、
思ったのを
記憶に
呼びもどしました。
「これから、
寒くなって、えさがなくなると、どんないたずらをするかしれない。」
助役は、こういって、たばこに、
火をつけました。
「どこか、
道で
落としたのでありませんか。」と、おじいさんは、いいました。
「なに、
逃げていくきつねのうしろ
姿を
見たというから、ほんとうのことだろう。」と、
助役は、そう
信じていました。
「おじいさん、きつねなんか、まあどうでもいいがね、それより、
来年はこの
前をバスが
通るというじゃないか。」と、
助役は、あらたまって、さもおおげさに、いいました。
「バスがで、ございますか。」
「まだ、
知らないとみえるな。そうしたら、いままでのように、
歩くものがなくなるだろう。」
「
歩くものが、なくなりましょうな。そうすれば、もう、この
商売もどうなりますか。」
おじいさんは、
力なくいいました。
「
世の
中が、
便利になれば、一
方に、いいこともあるし、一
方には、わるいこともある。しかし、そこは
頭の
働かせようだ。
考えてみさっしゃい。
近い
他の
村から、みんなこの
道へ
出てくるだろう。バスの
停留場が、この
家の
前にでも
着くことに
決まったものなら、この
店はいくら
繁昌するかしれないぜ。」
「そうでございましょうか。」と、おじいさんは、
白髪頭をかしげて、あたらしくいれた
茶を
助役の
前へ
出しました。
助役は
茶わんをとり
上げながら、
「それも、
運動するのはいまのうち、
早いほうがいいぜ。」といいました。
「
運動するといいましても、なにぶん、この
年寄りひとりではどこへも
出られません。」と、おじいさんは、かしこまってすわり、ひざの
上で、しなびた
手をこすっていました。
「なに、おまえさんがその
気なら、
代わって
運動をしてやってもいい。」と、
若い
助役は、
相手の
心持ちを
読みとろうと、
鋭く、おじいさんの
顔を
見ました。
おじいさんは、
心で、どうせそれには
金がいるんだろう。いったい、いくらばかりあったら、その
望みがかなえられるのかと、もじもじやっていました。
「いま、
話をきいて、すぐといっても、
分別もつくまいから、おじいさん、よく
考えておかっしゃい。」
そう、いいのこすと、
助役は
店を
出ていきました。
おじいさんは、このころから、なにか
新しい
問題が、
身に
起こると、しきりに
心細さを
感じました。それは、
年のせいかもしれません。そして、
遠くはなれている
一人の
息子のことを
思うのでした。いよいよ、いっしょになって、
頼ろうかとも
考えるのであります。
おじいさんは、
客がいなくなって、ひとりになると、このあいだ、せがれがよこした、
手紙を
出して、
見ていました。それにはそちらは、じき
寒くなって
雪が
降りますが、こちらは
冬もあたたかです。
父上も、どうかこちらへいらして、
親子いっしょにお
暮らしくださいませんか。
私どもも、まだ
子供のないうちに
孝行したいと
思います、というようなことが
書いてありました。たぶん、せがれが、
工場の
休み
時間に
書いたものとみえ、
工場の
用箋が
使ってありました。おじいさんは、それらの
文字ににじむ、
親思いの
情をうれしく、ありがたく
感じ、
手紙をいただくようにして、また
仏壇のひきだしへしまいました。
長年苦楽を
共にした
女房が、また、せがれにはやさしかった
母が、いまは
霊となって、ここにはいり、なにもかもじっと
見ている
気がして、おじいさんは
花生けの
水をかえ、かねをたたいて、つつましく
手を
合わせました。
このとき、
人のきたけはいがしました。
「このごろは、めっきり、
早く
日が
暮れるのう。」
そういいながら
入ったのは、
年とった百
姓でありました。
「いま、
町のもどりかの。」と、おじいさんは、
親しげに
迎えました。
百
姓は、おじいさんのそばへ
寄って、
腰を
下ろしました。おじいさんのおし
出す
火鉢にあたって、
昔風の
太いきせるに
火をつけました。
二人は、
小学校時代からの
友だちでありました。ほかにも
仲のよかったものもあったが、
早く
死んだり、あるいは、この
土地にいなくなったりして、この
年となるまでつき
合いをし、たがいに
身の
上話を
打ち
明けるのは、わずかこの
二人ぐらいのものであります。
「一
本つけるかの。」
「それを、たのしみに、
町で
飲みたいのを
我慢してきたわい。」
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