その
晩、おじいさんは、
家にいて、
正坊を
相手にして、
話をしている
夢を
見ました。
夜が
明けると、いい
天気でした。そして、
暑くなりそうでした。しかし、おじいさんは、
電車にも
乗らず、
街の
中を
見物して、
上野の
方を
指してきたのです。
高くつづいた
石段を
踏んで、
上野の
山に
登ると、
東京の
街が、はてしなく、
目の
下に、
見おろされました。しばらく、そこでおじいさんは、あたりをながめていました。
「
西郷さんの
銅像は、どちらでございますか?」と、おじいさんは
人にたずねました。
「あれですよ。」と、その
人は、
笑って、あちらの
方を
指さしました。その
人は、
田舎から、
見物に
出てきたのだなとうなずいて、おじいさんのようすをながめて
去りました。
「なるほど。」と、おじいさんは、
銅像を
目あてに
歩いてゆきました。そして、
心の
中で、
「これが、
偉いお
方の
銅像かな……。」と、つぶやいたのです。
ちょうどこのとき、
銅像の
下のところで、
人だかりがしてわいわいといっていました。
田舎の
静かなところに
生活したおじいさんには、
何事も
珍しかったのでした。
おじいさんは、
目を
銅像から
放すと、その
人だかりの
方へ
寄って、
肩と
肩の
間を
分けるようにして、のぞいてみたのでした。すると、
小さな
男の
子が、
迷子になったとみえて、
悲しそうに、
声をあげて
泣いている。それを
巡査がすかしたり、なだめたりしていたのでありました。
これを
見ると、おじいさんは、びっくりして、「
正坊じゃないか……。」といって、もうすこしで
飛び
出そうとしたのです。
清水良雄・
絵[#「
清水良雄・
絵」はキャプション]
「しかし、
孫が、どうして
一人で、こんなところへきているはずがあろう……。」と、おじいさんは、すぐに
思い
返した。けれど、
見れば
見るほど、かわいい
正吉に、
年ごろから、
頭かっこうまでよく
似ていたのでした。
「かわいそうに、どうしたということだろう……。」
おじいさんは、
故郷にいる
孫の
姿を
目に
描きました。すると、いつのまにか、その
目には
熱い
涙が、いっぱいたまっていました。
迷子は、お
巡りさんにつれられて、あちらへゆきました。その
後から、ぞろぞろと
人々がついてゆきます。
「どこへゆくのだろう?」
おじいさんは、まだ、なんとなく、その
子供に
心が
惹かれたので、
自分もみんなといっしょに
後からついてゆきました。
いつしか、
石段を
降りて、
電車の
通っている
方へまごついてゆきました。おじいさんの
頭の
中は、
「どこの
子だろう……かわいそうに。そして、
親たちは、また、なんという
不注意なんだろう……。うちの
正坊は、いまごろどうしているかしらん……。」ということで、いっぱいでありました。
おじいさんは、どこまで、
自分は、ついてゆくのだ? ということに
気がつきました。そのときは、
街の
真ん
中にきていたのです。ふたたび、
上野の
山へ
上る
気にもなれず、
宿へ
帰ってまいりました。
「
天気ぐあいはいいようだが、
圃のものは、いまごろどんなになったろう?」と、
故郷のことが
考えられました。おじいさんは、
土産物などを
買って、
帰りを
急いだのでありました。
やがて、おじいさんは、
村に
帰ってみんなとくつろいで、
話をしていました。
「おじいさん、
西郷さんの
銅像をごらんになりましたか。」と、せがれがたずねた。
「おお
見てきたとも……。」と、おじいさんは
答えた。
「
犬をつれていられるといいますが。」
「
犬か……。」
「
小さな
犬ですか?」
おじいさんは、それを
見なかったのでした。
西郷さんの
顔も、ちょっと
見たばかりで、
迷子のほうに
気をとられたのでした。
子供のようすが、
孫の
正吉に、あまりよく
似ていたので……
銅像のことなど
忘れてしまった。そして、もう一
度よく、
銅像を
見ようと
思っているうちに、
街へ
出てしまって、それきりになってしまったのです。
「
犬は、
見なかったな……。」
「そんなに、
小さな
犬ですか?」
こんな
話をしていると、
遊びにきていた、
近所の
男は、二、三
年前、
東京へいって、よく
西郷の
銅像を
見てきたので、
「なに、あれが
目に
入らないはずがないのだがなあ……。」と、そばであきれた
顔をしました。
「おじいさんは、なにを
見てきなすったのだろう……。」と、せがれの
女房はいって、おかしがりました。
おじいさんは、さすがにきまりの
悪い
思いをしました。これを
見た、せがれは、いくら
達者のように
見えても、
年をとられて、もうろくなされたのかしらんと、
老父の
身の
上を
案じて、なんとなくそれから
話もはずまず、
物悲しくなったのです。
その
後、おじいさんが、
上野の
公園で、
迷子を
見て、それが
孫に
似ていたということを
物語ったとき、
家内のものははじめて、
銅像をよく
見なかった
理由がわかって、それほどまでに、
孫を
思っていてくださるかということと、おじいさんは、まだもうろくされたのでないということを
知って、
大いに
喜んだのであります。
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