遠くで鳴る雷
小川未明
二郎は、前の圃にまいた、いろいろの野菜の種子が、雨の降った後で、かわいらしい芽を黒土の面に出したのを見ました。
小さなちょうの羽のように、二つ、葉をそろえて芽を出しはじめたのは、きゅうりであります。
そのほかにもかぼちゃ、とうもろこしの芽などが生えてきました。
きゅうりは、だんだんと細い糸のようなつるを出しました。お母さんは、きゅうりの植わっているところに、たなを造ってやりました。たなといっても、垣根のようなものであります。それに、きゅうりのつるはからみついて、のびてゆくのであります。
やがて、ほかのいろいろな野菜の芽も大きくなりましたが、いつしかきゅうりのつるは、その垣根にいっぱいにはいまわって、青々とした、厚みのある、そして、白いとげのようなうぶ毛をもった葉がしげりあったのでありました。
そのうちに、黄色の、小さな花が咲きました。その花のしぼんだ後には、青い青い、細長い実がなったのであります。
二郎は、毎年、夏になると、こうしてきゅうりのなるのを見るのでありますが、その初なりの時分には、どんなにそれを見るのが楽しかったでしょう。
「もう、あんなに大きくなった。」と、彼は、毎日のように、家の前の圃に出ては、きゅうりの葉蔭をのぞいて、一日ましに大きくなってゆく、青い実を見ては、よろこんでいたのであります。
いくつもきゅうりの実はなりましたが、その中に、いちばん先になったのが、いちばん大きくみごとにできました。
「お母さん、きゅうりがあんなに大きくなりましたよ。」と、二郎は、外から家の内に入ると、毎日のように母親に告げました。
「ほんとうに、いいきゅうりがなったね。」と、お母さんはいわれました。
二郎は、そのきゅうりがよくてよくて、しょうがありません。
毎日それに、さわってみては、もいでもいい時分ではないかと思っていました。
ある日のことでありました。お母さんは、二郎に向かって、
「二郎や、あの大きくなったきゅうりをもいでおいでなさい。つるをいためないように、ここにはさみがあるから、上手にもいでおいで。」といわれました。
二郎は、さっそく圃へと勇んでゆきました。そして、はさみを握って、葉蔭をのぞきますと、そこに大きなきゅうりがぶらさがっています。
二郎は、なんとなくそれをもぐのがしのびないような、哀れなような、惜しいような気がしてしばらくそこに立っていました。
二郎は、ぼんやりとして、夢のように、きゅうりが芽を出したばかりの姿や、やっと竹にからみついて、黄色な花を咲かせた時分を思い出すと、ほんとうにこの実をつるから切り離すのがかわいそうでならなかったのです。
二郎は、チョキンときゅうりをもぎました。そして、それを鼻にあてて匂いをかいだり、もっと自分の目に近づけて、このいきいきとした、とりたての、新しい青い実をながめたのであります。
「お母さん、これをどうして食べるの?」と、二郎はたずねました。
「まあ、みごとな、いい初なりですね。これは食べるのではありません。おまえが、釣りにいったり、泳ぎにいったりするから、水神さまにあげるのです。」と、お母さんはいわれました。
二郎は、それを聞くと、なんだか惜しいような気のうちにも、ひとつのさびしさを感じたのであります。
「水神さまは、きゅうりをたべなさるの?」
「きゅうりは、ぶかぶかと流れて、遠い遠い海の方へいってしまうのですよ。それでもおまえの志だけは、水神さまに通るのです……。」と、お母さんは哀れっぽい声でいわれました。
二郎は、自分の名をそのきゅうりに書きました。きゅうりの青いつやつやとした肌は、二郎の書こうとする筆の先の墨をはじきました。それでも、二郎は、何度となく筆で、その上をこすって字を書きました。
「お母さん、よく書けませんが、これでいいですか。」と、二郎は、きゅうりを母親に示しました。
「おお、いいとも、いいとも。それをおまえは持っていって投げておいで。」と、お母さんはいわれました。
二郎は、きゅうりを持って、いつも自分たちのよく遊びにゆく河の橋のところへやってきました。ちょうど雨上がりで、水がなみなみと岸にまであふれそうにたくさんでありました。そして悠々と流れていました。
両岸には草や雑木がしげっていました。
二郎は、ドンブリと橋の上から、手に持っていたきゅうりを水の上に落としました。きゅうりは、浮きつ、沈みつ、二郎が欄干につかまって見ている間に、下の方へと流れていってしまいました。
二郎は、この日、家に帰っても、きゅうりのことを思い出して、さびしそうにしていました。
「いまごろは、どこへいったろう?」
二郎は、あてなく、きゅうりの行方を思っていたのです。すると晩方の空が晴れて、かなたには夏の赤銅色の雲がもくもくと、頭をそろえていました。そして、遠くの方で、雷の音がしたのであります。
二郎は、寝るときもきゅうりのことを思っていました。しかし、床に入るとじきに寝入ってしまいました。
その間、きゅうりは、水に、流れ、流れて、夜の間、森のかげや、広い野原や、またいくつかの村を通り過ぎて、夜の明けたころにはもはや幾里となく遠くへいってしまったのです。そして、まだ、そのうえにも、きゅうりは、旅をつづけていました。
その日の午後でありました。一人のみすぼらしいふうをした乞食の子が、低い橋の上に立って、独りさびしそうに、流れてゆく水の上を見ていました。水には、雲の影と草の葉の影が映っていたばかりです。
そのとき、一つのきゅうりが、ぶか、ぶかと流れてきました。子供は、棒を持ってきて、あわててそのきゅうりを拾い上げました。きゅうりに書かれた文字は、すっかり水に洗われて消えていました。
けれど、遠い、遠い、水上から流れてきたことだけは、乞食の子にもわかりました。なぜなら、まだ、このあたりは、風が寒くて、きゅうりの芽がそんなに大きくはならないからです。
乞食の子は、そのきゅうりを手にとって、大喜びでした。さっそく、これから母や妹に見せようとあちらに駆け出してゆきました。
この日、はじめて、山のあちらに、雷の鳴るのを子供はきいたのであります。子供はふと途の上に立ち止まって、耳を傾けていました。北の方にも、夏がやってきたのであります。
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