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時計と窓の話(1)
日期:2022-11-27 08:42  点击:238
 

時計と窓の話

小川未明


わたしまれるまえから、このおき時計どけいは、いえにあったので、それだけ、したしみぶかいかんがするのであります。あるのこと、ちちが、まだ学生がくせい時分じぶん、ゆきするまち古道具屋ふるどうぐやに、この時計とけいが、かざってあったのをつけて、いい時計とけいおもい、ほしくてたまらず、とうとうったということです。
「これは、外国製がいこくせいで、こちらのものでありません。ある公使こうしかたってかえられましたが、そのかたが、おなくなりになって、こんど遺族いぞくは、いなかへおうつりなさるので、いろいろのしなといっしょにたものです。機械きかい正確せいかくですし、ごらんのとおり、どこもいたんでいません。」と、そのとき、みせ主人しゅじんは、いったそうでした。
ちちは、主人しゅじんのいうことをしんじ、ほりしものをしたとよろこんで、これをだくようにして、自分じぶんのへやへかえりました。
わたしは、ちちからいた、そんなとおむかしのことをかんがえながら、いま自分じぶんほんだなにのっている時計とけいをながめていました。外国がいこくから、日本にっぽんへわたり、ひとからひとへ、てんてんとして、使用しようされてきたので、時計とけいも、だいぶとしをとっているとおもいました。
たとえ、ふるくなっても、そのうつくしいかたちは、かわらなかったのです。四角形かくけいというよりは、いくらか長方形ちょうほうけいで、金色きんいろにめっきがしてあり、左右さゆうはしらには、ぶどうのつるがからんでいて、はとのとんでいるきぼりがしてあるので、いつても平和へいわな、しずかなかんじがするのでした。
わたしほんだなには、教科書きょうかしょや、雑誌ざっしや、参考書さんこうしょなどが、ごっちゃにはいっています。かべには、カレンダーがかかっているし、へやのすみには、野球やきゅうのミットがしてあって、べつにかざりというものがなかったから、この時計とけいだけが、ただ一つひかって、宝物たからもののようにえました。
ははも、そうおもっていたようです。しかし、はは宝物たからものおもったのは、多少たしょうぼくがおもったのと、意味いみがちがうかもしれません。なぜなら、ちちははが、いえったはじめのころは、まだいまのおおきな柱時計はしらどけいもなくて、このおき時計どけいただ一つがたよりだったからでした。毎朝まいあさちちは、この時計とけい出勤しゅっきんしたし、またははは、この時計とけいて、夕飯ゆうはんのしたくをしたのでした。そして、時計とけいは、やすみなく、くるいなく、忠実ちゅうじつに、そのつとめをはたしたのです。
けれど、ぼくがまれて、学校がっこうへあがる時分じぶんには、いつしか、ちゃはしらへ、おおきな時計とけいがかかって、時間じかんごとに、いいおとをたてたり、すべてごようをたすようになっていたので、この金色きんいろのおき時計どけいは、わすれられたように、ちち書斎しょさいで、しょだなのうえにのせられたまま、ほこりをあびていました。
わたしは、ほこりをあびて、まっている時計とけいるたびに、なんだか、かわいそうにおもい、人間にんげんのかってままにたいして、腹立はらだたしくさえかんじました。
「おとうさん、あのおき時計どけいをもらっても、いいでしょう。」と、わたしは、たのみました。
なぜか、ちちは、すぐにやるといわなかったのです。それを無理むりにたのんで、わたし時計とけい自分じぶんのへやへってきました。その当座とうざのこと、ははは、そうじをしに、わたしのへやへはいってこられると、おき時計どけいをごらんになって、
「これは、いい時計とけいですから、だいじになさい。」と、いわれたのでした。さも、どもがつようなしなでないといわれるようでした。
「なにしろ、しょうちゃんのまれるまえから、うちにあるのだし、おとうさんが、だいじにしていられたのですからね。それに、この時計とけいると、平和へいわかんじがするでしょう。」と、おかあさんは、いわれました。
「ぼくも、そうおもうんです。しかし、時間じかんは、正確せいかくなんですか。」と、わたしは、いいました。
いつか、山本やまもとくんがあそびにきて、ラジオをきながら、この時計とけいあげて、
「おや、この時計とけいは、おくれているのだね。」と、いったことがあるからです。
「それは、正確せいかくでしょうよ。おとうさんが、外国製がいこくせいのいい時計とけいだと、いつもほめていらしたのですから。」
はは戦時中せんじちゅう、この時計とけい疎開先そかいさきっていって、こちらへかえると、時計屋とけいやへみがきにしたこと、そして、それがなかなか手間てまどるので、ちちさい三さいそくにいったことなど、おもしました。
「なるほど、いくらいい機械きかいでも、ながあいだには、はがねがすれて、へってしまうだろう。」と、ちちは、ってかえった時計とけいをながめて、いっていました。
「どうかなったのですか。」と、おかあさんが、そのそばへいくと、
むかし機械きかいは、いたんでも、とりかえができぬから、こわれれば、それまでだということだ。これは機械きかいにかぎらず、なんでもそうだろう。しかし、まだやくにたちそうだから、このままにしておきましょう。」と、そのとき、ちちがいったことをおもしたので、
「あちらのものは、こわれると、こちらではなおされないといいますから、こまりますね。」と、ははは、いいました。
このことばをくと、ぼくは、外国品がいこくひんだけに、かえって、不安ふあんがしました。いくら宝物たからもののようにだいじにしても、時計とけいであるかぎり、時間じかんがくるえば、まったく価値かちはなくなるとおもったからです。
ある学校がっこうと、野球やきゅう試合しあいをするので、しょうに、グラウンドへあつまる約束やくそくをしました。ぼくは、すこしはやめにいったつもりなのに、もうみんながきて、ぼくのくるのをっていました。
しょうといったのに、きみがこないから、どうしたのかとおもっていたよ。」と、一人ひとりが、せめるごとくいいました。
「そのつもりで、きたんだが。」と、わたしは、どうして、おくれたのか、ふしぎにおもったのです。
しょうちゃんの時計とけいは、やはりおくれているのだ。ラジオのほうが、まちがっているなんて、きみはおかしなことをいったよ。ちょうど、日本にっぽん世界せかいじゅうでいちばんつよいとおもっていたのと、おんなじなんだぜ。」と、山本やまもとくんが、じょうだんをいってわらいました。それをきいて一どうわらしました。ぼくは、そういわれると、さすがに、はずかしくなりました。ちち自慢じまんした時計とけいが、やはり正確せいかくでなかったのかとおもったのであります。

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