時計のない村
小川未明
町から遠く離れた田舎のことであります。その村には、あまり富んだものがありませんでした。村じゅうで、時計が、たった二つぎりしかなかったのです。
長い間、この村の人々は、時計がなくてすんできました。太陽の上りぐあいを見て、およその時刻をはかりました。けれど、この文明の世の中に、時計を用いなくては話にならぬというので、村の中での金持ちの一人が、町に出たときに、その町の時計屋から、一つの時計を求めたのであります。
その金持ちは、いま、自分はたくさんの金を払って、時計を求めることを心の中で誇りとしました。今日から、村のものたちは、万事の集まりや、約束の時間を、この時計によってしなければならぬと思ったからであります。
「この時計は、狂うようなことはないだろうな。」と、金持ちは、時計屋の番頭にたずねました。
「けっして、狂うようなことはありません。そんなお品ではございません。」と、番頭は答えました。
「それなら、安心だが。」と、金持ちは、ほほえみました。
「この店の時間は、まちがいがないだろうな。」と、金持ちは、またききました。
「けっして、まちがってはいません。標準時に合わせてございます。」と、番頭は答えました。
「それなら、安心だ。」と、金持ちは思ったのであります。
金持ちは、買った時計を大事にして、自分の村へ持って帰りました。
これまで、時計というものを見なれなかった村の人々は、毎日のように、その金持ちの家へ押しかけてきました。そして、独りでに動く針を見て、不思議に思いました。また、金持ちから時間の見方を教わって、彼らは、圃にいっても、山にいっても、寄ると時計の話をしたのであります。
この村に、もう一人金持ちがありました。その男は、村のものが、一方の金持ちの家にばかり出入りするのをねたましく思いました。時計があるばかりに、みんなが、その家へゆくのがしゃくにさわったのであります。
「どれ、俺も、ひとつ時計を買ってこよう。そうすれば、きっと俺のところへもみんながやってくるにちがいない。」と、その男は思ったのです。
男は、町へ出ました。そして、もう一人の金持ちが時計を買った店と、ちがった店へゆきました。その店も、町での大きな時計屋であったのです。男は、いろいろな形の時計をこの店で見ました。なるたけ、珍しいと思ったのを、男は選びました。
「この時計は、狂わないだろうか。」と、男は、店の番頭に問いました。
「そんなことは、けっしてございません。保険付きでごさいます。」と、番頭は答えました。
「その時計の時間は、合っているだろうか。」と、男はたずねました。
「標準時に合っています。」と、番頭は答えました。
「ねじさえかけておけは、いつまでたってもまちがいはないだろうか。」と、男は、念のために問いました。
「この時計は、幾年たっても、狂うようなことはございません。」と、番頭は答えました。
男は、これを持って帰れば、村のものたちが、みんな見にやってくると思って、その時計を買って大事にして村へ帰りました。
もう一人の金持ちが、別の時計を町から買ってきたといううわさが村にたつと、はたして、みんながやってきました。
「時計をどうぞ見せてください。」と、村のものたちが、口々にいいました。
男は、そういってくるだろうと思っていたところへ、みんながやってきましたから、得意になって、
「さあ上がって見なさい。なかなか機械のいい時計なんだから、この時間ばかりは安心していいのだ。」と、男はいいました。
村のものたちは、時計の形が変わっていましたので、
「やあ、これは珍しい。」といって、その時計の前に頭を集めてほめそやしました。
しかるに、不思議なことには、村に二つ時計がありましたが、どうしたことか、二つの時計は約三十分ばかり時間が違っていました。どちらが違っているのか、だれもそれを知ることができないのであります。
「この時計は狂っていない。標準時に合っているのだ。」と、一人の金持ちがいいますと、
「この時計こそ合っているのだ。上等の機械で、町の時計にちゃんと合わしてきたのだ。」と、他の金持ちがいいました。
二人の金持ちは、たがいに自分の時計を正しいといって譲りませんでした。ちょうど、二つの時計は厳かなおきてのように、村のものは、二つに分かれて、一方は、甲の金持ちの時計を正しいといいました。一方は、乙の金持ちの時計を正しいといいました。
いままで、平和であった村が、時計のために、二つに分かれてしまいました。時計は神さまのようになってしまったのです。
「今夜、六時から集まる。」と、いい合わしても、一方のものは、乙の金持ちの時計が六時になると会場に集まりましたが、一方のものは、甲の金持ちの時計が六時にならないので集まりませんでした。それで、三十分あまりも、二つの時計の時間が違っていましたから、前に集まったものは、後からきたものに対して、待たされた小言をいいました。
「俺たちは、ちゃんと六時にきたのだ。こちらの時計に狂いはないはずだ。それは、おまえさんたちの時計がまちがっているからだ。」と、後からきたものはいいました。
「いいや、私たちのほうの時計はまちがっていない。おまえさんたちのほうの時計こそまちがっているのだ。」と、前に集まったものがいいました。
分享到: